‘オルフェウス教’の美しい祈りの言葉 山ホタル Ⅳ
亜里沙ちゃん、芭蕉には、蛍の句もたくさんあるんですよ。
一つ一つの句には、人により様々な解釈や味わい方があるでしょう。しかし、それをどれが正解と限らなくてもいいように思います。
芭蕉本人でさえ、限ることはできなかったでしょう。それは芸術作品といわれるものの宿命です。
芸術の真の果実は、目の前にある作品にあるのではなく、作者が白紙に まずは置いた一筆の旅立ちから、旅のある日の宿までの一歩一歩の歩みのなかにこそあり、作者の旅はそこから更に果てしなく続くからです。
地理の旅は、平面の上の点を線で結びますが、心の旅は違いますね。何か階段の一つ一つを自ら作りつつ登る感じがします。
作品という一つの階段の上に作者はとどまるわけにはいかず、心の本能に突き動かされるまま、更なる上に瞳を仰ぎ、またひとつ天空にかかる段を建てるでしょう。
だから、僕たちもその段に立ち、空に向けて羽ばたくことができるのです。
幼い頃友達と自慢のメンコを交換したように、隣の人と互いに心で描いたイメージをやり取りするのも楽しみです。でも、この隣の人の存在はとても大切です。
ふと、親指の下の手首に手を当てると人の脈拍は案外早いですね。でもこれが命のあかしです。
聴診器で心臓の音を聞くと、とても自分のものと思えません。大海のとわに打ち返す波の音にも聞こえます。隣の人のも聞いてあげてください。
同じ海の音が聞こえることに、驚きます。
命の元は一つ、ただそれが個々に分与されているのですね。
隣の人のことを思うことで、その向こうにある海のあり様を思わざるを得ません。
有里沙ちゃんも、幼い頃、広告の裏や、千代紙の白いところ、真っ白な画用紙に、時の経つのを忘れて、絵や覚えたての字をたくさん描いたでしョ。
僕は、だんだん大人になると忙しくなり、そんなことも忘れてしまいました。
永い人生を経て、今ふり返ると、その頃が人生の一つの花のように思えます。
いまこそ、子供がお絵かきしたように、魔法の杖が触れるものを心の花に変えていきたい。
夕闇が深まるに連れ、川辺に一つ一つ蛍の火が灯っていくように、淋しかった心の菜園に、ポッ、ポッと花のつぼみが開いていくことでしょう。
富士の秋、歩けど歩けどふかふかの苔に覆われた、人の手が触れられぬ森の中で、真っ赤や、レモンイエローの美味しいキノコを採ると、なんだか宝石を見つけたように自慢です。
有里沙ちゃん、このような宝物豊かな時の森の中を歩いていこう。
そして見つけた宝を、空を流れゆく白い雲に書いてください。
やがてその雲が僕を訪れてくるでしょう。その雲を運んだ風が、有里沙ちゃんの心の香りで、僕を包むことでしょう。
今ここにかかげる芭蕉の句は、とっておきの雄大な白い雲のキャンバスです。
有里沙ちゃん、無邪気に好き勝手で構わないのです。自由に絵を描いて羽ばたいてみてください。自由に羽ばたくことこそは、人の生の誇らかな権利です。
我は天と地の子なり、だが我が血統は天に属す
古代ギリシャの‘オルフェウス教’の美しい祈りの言葉、これがその宣言です。
そして何回も何回も楽しんで( これが大切 )描いてるうちに、やがて渦の芯のようなもの現われてきます。
それが芭蕉です。
己が火を 木々に蛍や 花の宿
草の葉を 落つるより 飛ぶ螢哉蛍見や 船頭酔うて おぼつかな
目に残る 吉野を 瀬田の螢哉
この螢 田毎の月に くらべみん
琵琶湖から流れ出す瀬田川の石山寺蛍谷は昔全国一の蛍の名所で、数万とも、数十万とも云われる蛍が緑の炎とかして舞い、高さ十丈(三十メートル、何ともスゴイ。)にもなったと云います。