この螢 田毎の月に くらべみん 山ホタル Ⅴ
有里沙ちゃんは、信州姥捨山の「田毎の月」をごらんになったことがありますか、
以下は、僕が‘有里沙ちゃん行’の特急の雲のキャンバスに描いたものです。
万葉集の時代から有名で、芭蕉の句中の「田毎(たごと)の月」を、‘田んぼごとの’というので、僕は長いこと斜面の水を張った千枚田に、すべて月が写っていると思っていました。なんてすごい!1000個の月だ、そんなの見たら、地球にいられなくなる、と。
しかしこれは光学的に考えるとちょっとおかしいですね。あり得ない。
考え得るとすれば、月の出の時、月影が長くのびて、一個の月が何枚かの田に写ることはあるでしょう。でもこれでは、万葉の時代から有名を維持してきたほどの現象ではない。
では、どんな光景が、そんなに人をうつのか、謎ですね?
ところが、ある夜、その謎の解ける出来事が起こったのです。
富士の夜の森のなかで、ふと自分の片手がほのかに光りました。
エッ、なぜ、なんで光ってるんだろう? まわりは暗い闇のなかです。
でも、足元の闇の中にも、光るものがあるのに気がつきました。
「あっ、ホタル!」でも、これはおかしい、標高2500mにホタルはいない。
しゃがんで見ると、高さ10㎝ぐらいの花茎の上に、地にうつむいた花が、全身白蝋質の鱗片に覆われて、ヒカリゴケのようにほの白くホタルのように灯っていました。
はじめて見ました、“ぎんりょう草”、「このはなさくや姫」の化身です。
よく見ると、花の光りの花粉がこぼれ落ちて、下の地面もほの明るい。
そこは、ちっちゃな光りの繭になって、一茎の灯る花と、地に宿ったお月様の赤ちゃんのような、ちっちゃな丸い光りの生きものが、仲むつまじく見つめ合い、話してでもいるかのような気配でした。
周りは、深閑として、もの音一つ聞こえない。
しかし、今や姫の化身と化した花を芯に、山の気が満つるというか、この深く大きな静けさのなかを、富士そのものを初め、草木や、虫や小鳥や獣や砂 礫一粒に至るまで、十重(とえ)にもはた重にも限りなくその裾野を広げて僕を囲み、目に見えなくともざわめくように己の在ることを告げています。
耳を澄ますと、夜はその歌声が縦横無尽に響き合い、その喜びの潮(うしお)に充ち満ちていたのです。
そして、このように世界は、すべてが内密のうちに、互いに話し合っているのものなのだと感じました。
深閑とした冷気の中にも、生まれてはじめて世界に素手で触れ、その大きさを知ったような気がしたのです。
そして、あの美しく、決してバラせない化学式の亀甲紋のように、万物全てが結ばれているのだと思ったとたん、地を覆うその壮大な編み目は、天空を覆うインドラ神の網のように発光しだしたのです。
震える目を上げると、木の葉の隙間ごしにいつの間にか、そこに月がありました。
そうか、地のもの達は地の同士だけではなく、天とも話していたのか。すべてを照らす月が、その中心に世界を統べるがごとくあったのです。
「田毎の月」の秘密はこれなんだ、とその時思いました。
周囲の闇の中に、一つずつ取り巻く黒の畦に際だたされ、すべての田が、月の光りにほの明るく光っている。
もし、壮麗な千の月が見えたとしても、それは月が写っているに過ぎない。人は、田も水も大気も見るでなく、タダ写る月 影を見るのです。それはその字の通り影なのでしょう。
ほのかに灯る千枚の田は、ただ写すのでなく、光源が見えないことにより、返って不思議な世界を見せるのです。
水が月の光りを変容し、自ら慈光を発するかのように見えます。見事なかえし歌の、月との美しい相聞歌です。
いまや、見えている田だけではなく、すべての田が、水という水すべて、およそ地にあるものすべてが、灯っています、僕の手まで!
僕たちは地を見下ろし、やがて光りの至り来るみなもと、天をあおぐでしょう。そして月との相聞歌の行き交うなかに万物の褥をしくのを見るのです。
芭蕉は、田毎の月との出会い、蛍の光りとの出会いが、お互いに照らし合い、その意味を深めていく、こんな人の中に自ずから備わる世界を識る力に、新鮮な驚きを覚え、目前に並ぶ、月、蛍、人の心の、三つの“珠”の照らし合いを眺め、深い喜びに胸をふるわせたんでしょうね。
こんな事を描いた雲のキャンバスが、もうすぐ有里沙ちゃんのところに届くでしょう。