手の中に無限を、一瞬に永遠をつかみなさい Ⅰ
有里沙ちゃん、永かった山ホタルの旅も、終わりました。
有里沙ちゃんの、今を見つめる深い目に、導かれた旅でした。
この旅の柱となるブレイクの詩について、あらためて書きましたので読んでください。
また、新しい旅が始まります。
To see a World in a Grain of Sandand a Haven in a Wild Flower,
Hold Infinity in the palm of your hand
And Eternity in an hour.一粒の砂の中に世界を 一茎の野の花に天を見たいなら
あなたの手の中に無限を そして、一瞬に永遠をつかみなさい
美しい言葉ですね。
でも僕は、永らくこの言葉に親しみながらも、その美しさに幻惑され、その意味するところが何か、全く分りませんでした。
永遠・無限という言葉に思いを傾けても、人の思いを断ち、途方に暮れてしまいます。
そして、実際には、この宇宙に、永遠も無限も存在しないのですから。
宇宙空間は有限であり、また私たちの命の尽きるがごとく、全ての存在物にも限りがあります。
脈動する宇宙の生命を支える血液とも云える時も、無窮としての永遠性はありません。
その前には空間さえもが身をかがめ、時さえその身をゆだねる、何者もをしても越えることのできぬ、唯一絶対不変なるもの‘光’りさえ、299,792,458m/s(≒30万キロメートル毎秒)というたった一つものに強縛されているのです。
やがていつかは、この生きものとしての宇宙の命運も尽き、時間も空間も失せてなくなります。
そして無から生成したものは、定めに従うオデュッセイの帰還ごとく、また母港となる無のなかへ帰るのです。
いったい、この生成寂滅の壮大な叙事詩の一部始終の由縁を、果たして何者が知りうるのでしょうか。
永遠・無限は、在るものどころか、無さえない無のなかにしか生息できない、いわば虚数の花なのに…。
それにもかかわらず、ブレイクは ‘ 手の中に無限を 、そして、一瞬に永遠 ’をつかむことができれば、
‘一粒の砂の中に(も)世界を 一茎の野の花に(さえ)天を見る’ことができるといいます。
その教えんとする、‘世界’また‘天‘は、人になにを与えんとしているのでしょう。
たしかに、人はこの二つの言葉に、その実体を見つめることも出来ず、また思いを断たれても、本能的に美しさや憧れを感じます。
人のこの本能のなかにはどんな美しい物語が隠されているのでしょう。
…‥‥・つづく・‥‥…