無限の響きがこもる‘歌の蕾’
わぁ~、緑のない季節が半年も…! 山中湖に住んで、いちばんショックだったことです。
いくら冬の荘厳な富士や宝石箱のような星の美しさに打たれても、やはり緑に飢えます。
でも、今日見つけたんです。
前の林の枝々が、赤ちゃんが力むように赤らみはじめているのを。
この芽立ちの合図を境に全ての命がうごめきはじめ、やがて大地おおう緑の大爆発が起こります。零下10度、20度に耐えに耐えたバネが一挙に放たれるのです。
そして、緑の訪れた季節には、妖精の為せる技としか思えない美しいことがあちこちで起こり、共に厳冬を耐えた人の心を慰めます。
まだ明けやらぬ静謐なみなもに、天の水が一しずく落ちてみるみる波紋が広がるように、小鳥の歌の蕾が一つ開くと、一日の時の花が咲くのです。
しかし、これは触れればもろくも崩れそうな、実に繊細な連鎖系から成り立ちます。
夜のなかにも、大気圏の円球の接線を通過する太陽光は、大気中の微粒子に散乱され、暗黒の深海をマリンスノーが降るように、ひそかに秘めやかに地に降りつもります。
しかし、このまるで1億光年離れた銀河の光りのような、か弱い光りを感じるものがいるのです。
それは地をおおう全ての植物中のミクロの葉緑素です。
彼らはそのあるかなきかの光りにも反応し、光合成を初めて酸素を放出します。
その空中の微量な酸素濃度の変化を、小鳥たちの繊細な琴線がとらえ、歌の蕾が生まれます。
この曙の女神オーロラ(エオス)の胸元を飾る光玉の連なりのような美しい感応系が、黄金のアポロン(ヘリオス)をよぶのです。
曙の大気は、富士の揺るがぬ通奏低音のうえに、小鳥たちのトレモロの音符が散りばめられて、風のタクトが振られる毎に、春の光りに煌めくさざ波の 笑い声や、新芽がプチプチ冬のコートを脱ぐ音、人知れず雪解けに湧き立つ泉の歌声、ケモノや虫たちの喜びの和声…、数限りなくエトセトラが重ねられ、壮大 なシンフォニーに満たされるのです。
すぐ前の林でも、後ろの唐松林からも、湖畔のズミの森で、朝靄に煙る富士の裾野からも、遠く近くありとあらゆるところに充ち満ちます。
そして、小鳥たちの歌も、もはや小鳥たちの歌でなく、その歌の五線譜たる大気そのものが歌いはじめたかのように、人の身を包むのです。
人が両手を合わせた形の蓮の蕾が、ポ~ンとはじけて花開くや、蓮華座の上に仏が立ち現れたかのごとき香気を放ち、周りを仏界の相に染めるように、身を包む朗らかに歌う大気は人をこの世のものとも思えぬ色合いに染め上げ、未知の世界を見せるのでした。
春うららかな菜の花畑に蝶とたわむれる童(わらべ)のような、あどけない朗らかさには、悲しみも苦しさも一点のくもりもなく、墨を置かれる前の白紙のように、限りない可能性と限られない自由の喜びがあります。
命の発露が喜びを喜びのままに自ずから然りと戯れています。
限られたる存在である人を包むこの朗らかさに、相向かった音叉がやがて同じ歌を歌い始めるようにとも鳴りすることで、人は朝の小鳥の歌に 無 限 の響きを、限られざる事の喜びを感じることができるのでしょう。
そして、人がこの朗らかさの質感をよく味わえば‘慈悲’もしくは‘愛’という言葉でしか指し示し得ないものを思わざるをえないのではないでしょうか。
その時、人は、世界のあまたの川が一つ海に注ぎ溶けて、もはや一つの川であったことを忘れるように、私を忘れることでしょう。
そして川であり海であり、様は違えど、不二 ( 二つにあらず )なる水であったことを喜び、歌の蕾となるでしょう。
私の希望です。