限りある身に限りなきものを宿す
そう言い残し去りゆくものが、何ものかは知る由もありません
しかし、確かに心には微笑むような喜びが残されているのです
去りゆくものは、深く高きものなのか、風にまぎれる香りのように、
その姿を見ることもかなわず、その足跡さえも残さない
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人は、命に限りある身でありながら、なぜ限りなきものに無上の喜びを感じるのでしょう。
限りなきものは、宇宙の時空のどこにも存在しないものなのに、澄んだ青空や、深い海の青に包まれて、いやそれどころか、一輪の花に、一粒の砂にさえ、永遠・無限を感じる方もあるでしょう。
秋のある日に、‘aura-somal’の露草色のかわいい小瓶を胸に架けておこしになられた方がいました。その露草色を見とれているうちに、不思議な気持になりました。青の魔術にかかったのですね。
露草の花は、見ていると何だか永遠の彼方の空に見つめられているような気になって、私が特に好きな花なのですが、永いこと梅雨の頃に咲くから露草とばかり思っていました、毎年見ているのに(笑)。
ここでは夏の終わりに、つりふね草の鮮やかな からくれないや野菊の清楚なしろ色、みずひき草の紅にまぎれて咲き、毎朝起きるのが楽しみになるぐらい、とても優しい景色を作ってくれます。
名のいわれも美しく、花は朝露と共に消えるからとか、朝ひらくともう昼には、ひと雫の青インクのような露になるところから付きました。
古くには、友禅の絵付けをする人はこの露草の畑を持っていて、白磁の椀に花とこの露を集め、それで下絵を描くのです。この青色は、花の命と同じに儚く、水に流れなくなります。
線の命は、筆を引く絵師が込めた気持の勢いいかんで、その真剣勝負を露草は助けるのですね。青い蝶の無数に飛び交う秘密の花園で、蝶を摘み、露のひと雫を集める絵師の心の置き所、その心の張りにうたれます。
私も露草に、幾度か助けられたことがあります。
身体の疲れた折りには、露草に再び会いたい、露草に会うまではどんなことをしてもガンバロウと思いました。
どんなことをしてもといっても、ただすることは、汚れなく晴れやかな露草の花を心の中で枯らさないことだけなのですが…
そして癒された後には、あの露草のひと雫の甘露を頂こうと、ナンカ天下無敵の薬のように心の中で決めていました。
小瓶の中の露草の、命が天に帰ったような美しい青に、ふっと息を吹きかけられたように、幼い頃の思い出がよみがえりました。
私事にわたり恐縮ですが、それは小学校4年生の頃で、その前の年に相次いで祖父祖母があの世の人となりました。生まれて初めてのことで、それがどういう事なのかまだ分らない年頃ですが、野辺送りの道すがら道のあちこちに群れ立ち咲いている露草を見て、なぜかそれが無数の青い星に見えました。
「アッ!、あんなところに星が咲いてる、そうか、二人ともあそこへ行くんだ…」とわけも分らずに、妙に納得してしまったのです。
それは、子供心ながら露草の無垢な花色に浄められ、その気高さに癒された故のことだと思います。
生地の徳島は、真ん中を日本で3番目に大きい吉野川が流れています。
春には、もんしろ蝶が舞う菜の花に埋め尽くされ、空からはきっと黄河のように見えたでしょう。夏は和三盆のサトウキビの花の薄黄に、秋はちっちゃな子の笑顔のように群れ咲く藍の赤紫の川となりました。
せっせとツクシ摘みやハゼ釣り、ホタル狩りやキリギリスを捕まえに、晩秋には郷愁を誘う風景として忘れられない柿を採りに通いました。
豊かな川に、育まれました。
そのうち、この川の水はどこから来るのだろうと妙に気になり、日曜日に小さな自転車をこいで出かけるようになりました。
町から山奥に向かうにつれて変わるものがあります。大河の堤防は高く、町の家並みが一望できますが、それは家々の屋根です。
町中にはビルや瓦屋根が、それからトタン屋根や藁ぶき屋根に、さらに山に入るとそれもなくなり、檜や杉の皮ぶき屋根に、最後はあんなところにも夜は灯がつくのだろうかという一軒家になります。
川をさかのぼるに連れて、人の暮らしは昔に帰り、自然に溶け込むような生き方になります。川をさかのぼることは、時をさかのぼることで、人の暮らし、生き方の原点を見せてくれました。
今という同じ時にもいろんな生き方があり、自分の置かれる場が唯一ではないのだと、なぜか心がホット安らぐのを感じました。
そしてある日、河原に自転車を止めて休みながら、なに気なく水の流れゆくのを見ていました。
その時、「今、落ち葉を乗せて行った水はこんな細い流れから、本流に注ぎ、向こう岸が見えないぐらい広い河口から海に注ぐんだ」、と、ここまでは水の坊やの冒険に喝采してよかったのですが、(笑)
ところが、「もう海の水に溶けたら、川の水でなくなり二度と帰ってこないんだ…、永遠に無くなるんだッ!」と思ったとたん、ものすごい恐怖に襲われました。
身体がぶるぶる震え、怖くなって、急いで自転車に乗り、町まで必死に下り、一人ではいられずに、人がたくさんいるところということで、デパートに飛び込みました。
でも、その中で大人は楽しそうに買い物をしながら笑っています。「あんなコワイものがあるのに笑っているなんて、大人はバカだ」と、この少年は思いました(笑)。
それからは毎晩のように、身を横たえる敷き布団が突然なくなり、無限の奈落に落ちていくような恐怖に襲われ、起きてはご飯なんて食べてもどうせ無駄なんだと、一挙にウン十年も年を取ってしまいました。今から思っても、自分の事ながら可哀想ですネ(笑)。
その様な日々に苦しめられていたある日、椅子に座り目を閉じて、ちっちゃなレコードプレーヤーで、聞きあきてすり切れたピアノ名曲集を聞いていました。
とッ突然、何かが身体から抜け出て昇り、後から身体が付いてきたような、空中にスーッと浮上する感覚に襲われわれました。
そして目を閉じているはずなのに、ありありと上方に露草色に透き通った小さな珠が輝いているのです。
それはいったいこの私の中で光るのか、それとも現実に外にあるのか分らないのです。それよりも何よりも、いったい自分が目を開けてるのか閉じてるのかさえ分りません。
そして心には、この光りは、決して汚されも、けがされも、壊されもしないものだ、という確信が刻まれました。
限りある身に、限りなきもの、不滅のものが宿る。
この時、私は人というものが立つ位置を明確に教えられ、恐怖から救われました。
人は、限りあるものと、限りなきものの真ん中に立ち、それを繋ぐ架け橋なのだ、という位置です。
気が付くと、MOZARTの一つの音が、その通り過ぎていったものの、天使のほほえみのように、ふくよかな残り香に包まれて鳴っていました。
…‥‥・つづく・‥‥…