‘あらゆる望みがみんな浄められている’
手元の古びた一枚の写真は、R・シュタイナーの人智学の権威として著名な高橋 巌 先生が「西岡さん、この写真には妖精が写っていますね!」と、おしゃったものです。
それはある冬の夜、満月の光りで作られた澄み切った水晶の珠をのぞき込んだように世界が見えた夜のことでした。大きな窓の外をなにげなく見やったところ、不思議な気配に身を包まれました。
‘何だろう’と、元をたぐると、普段は目に見えない世界の芯が、今まさにその姿を現したといわんばかりの風情で、富士が音もなくそこに座っていました。しかしそれは、初めて見る異様な姿でした。
白雪の富士の中心に、月の光りの道を降りてきたかのように、蛍の火のようなうすみどり色の揺らめく炎がひとつ、熱なく燃えていたのです。
はかない命の蜻蛉の羽の色と、せつなく思うひまもなく、たちまちのうちにその火は燃え広がり、富士全山を、さらには稜線高く舞う雪煙までも、うすみどりの炎に染めました。
それを見たとたん、“木花開耶姫”(このはなさくやひめ)という言の葉がこぼれ落ちました。
皆さまにも、きっとご経験がおありではないでしょうか。
日常の時の結び目がほどけて、目の前の光景が何か神話の中の出来事のように思えたことが…。
民族の文化のルーツである神話は、遥か昔に起こった出来事をただ述べるのでなく、各時代を血脈のように貫いて、その風土に生きる人々の、世界を受け取る術の‘ひな形’を与えてくれるように思います。
遥か離れた糸の端と端を結ぶように、今を生きる私達を古代の叡智につなげてくれます。
“木花開耶姫”の美しい魔法にかかって、目前の林の雪原に写る木々の繊細なレース模様のシルエットは、まるで生き物のように微妙に移ろい、目に見えぬ時の姿を秘めやかにこの瞬間見せてくれているように思いました。
思わず写真を撮ってしまいした。
ところが、シャッターを押した瞬間、私の中に思いもかけない感情が起こりました。それは取り返しようのないことをしてしまった!という胸をえぐるような後悔の念です。
たった窓ガラス一枚を境に外は、こちらの世界とは在りようが全く違う、時の流れを止めたかのような異界の気配を放っていたのです。
青白い月光は外の世界を、賢治が『全く私の手のひらは水の中で青白く燐光を出していました。』 と歌った‘氷相当官の過冷却の水’ 、この溶けたプリズムのような不思議な水を満々とたたえた“マルサロワール湖”の青一色の水中風景のごときものに変えていたのです。
林はまるで水草のように、月光の湖水の中を揺れていました。
チベット高原最深部にある、インドラ神(帝釈天)の住まう世界の中心・須彌山に例えられ、世界の四宗教の聖地であるカイラス山。
そのカイラスの母乳を湛えた“マルサロワール湖”は、アジアの4大河 ガンジス、インダス、プラマプトラ、黄河の偉大な源であり、世界最高位とされたチチカカ湖も遥か下界に 深海から標高4590mに浮上し、不思議なことに零下10度も凍らないといわれています。
ここではあらゆる望みがみんな浄められている。願いの数はみな寂(しず)められている。重力はお互いに打ち消され、冷たいまるめろの匂いが浮動するばかりだ。
賢治がこう歌った天上の瞳 “マルサロワール”の心が、目に見えないベールとなって世界を覆ったように思いました。
月の光りの魔法の粉で、落ち葉一つさえ そこに在ることを誇るかのようにほのかな燐光に包まれていました。
この神々しい光景を目にしてはいけない。
私の意識がその場にあることを気取られれば、この秘めやかな営みは即座に止み、その聖なる生き物はたちまちその命を失うであろう。
人の息ひとつ、小指一本さえその場に触れれば、それらは“青白く燐光を出して”共に燃え尽きてしまうに違いない。
私は盲しいた後にしか、この光景を見てはいけなかったんだ!と、切なる祈りのような思いがわきおこり、私はその珠を胸に納めました。
しかし、後日その写真を見たとき、この心を哀れに思ったのか、小さな形見がそこに残されていたのです。
…‥‥・つづく・‥‥…