壇 ふみ / 池辺晋一郎
N響アワー P.モーツァルトでの撮影会にて。
富士山の秘境にもお連れしました。
壇ふみさん、池辺晋一郎氏のこと
マージナリアコンサートでは、N響の方に演奏していただくことが結構多い。そんなご縁で、N響アワーで2回ほどモーツァルトの撮影があった。1回目はペンションで、フルートの小出新也さんとオーボエの小島葉子さんの二重奏のコンサート、2回目は壇さんと池辺さんを富士五合目の神秘的な樹海の中へとご案内しました。
私どもではよくテレビドラマの撮影がおこなわれる。緑の中に隠れるように立っているそのたたずまいや、巨大な漆塗りの玄関扉、ホールの雰囲気が特殊で、面白いらしい。おかげで、放映されるととんでもないことがおこる。特別、誰に知らせたわけでもないのに「西岡さん、今モーツァルトがでてるわよ。」という電話が鳴りやまない。ちょっとした細部しかでていなくても、お分かりになるらしい。まるで、「モーツァルト」という名札がついているみたいなのだ。でも、これはとてもありがたく嬉しいことだ。一つの場所が、訪れてくださった方の記憶の中に長年残していただいている。そしてはずむお声でお電話くださる。万軍の味方を得たようなものである。おかげで、こんな山の中にいても淋しくない。みなさん、本当にありがとう。
N響アワーが、放映されたときはもっとすごかった。3日ぐらい続いた。“モーツァルト”というペンションをしているのにこんなことを言うのも何だが、クラッシックの音楽を聴くのには結構体力がいる。お昼お仕事で体力と神経を使い、通勤電車ですり減らし、やっとお家にたどり着いた残りわずかの体力が、人の眼をN響アワーに向けるだろうか、と思っていた。しかし、意外や意外こんなにたくさんの方が見ていたのだ。体力のある自分が見ていなかったので本当に驚いた。テレビがなかったのが、致命傷。
そこでハタと考えた。「クラッシックの通の方だけにしては多すぎる?そうか!」と言うことで、分かってしまった。番組のビデオで、壇さんと池辺さんが出ているところを全部カットして観てみると、これはとてもマニアックな体力を要求する、とても残りわずかの体力では持つわけがない。実は、感動というのはとてつもない生体エネルギーの消費者なのだ、あれは一種の脱力感からくるエクスタシーなのではないか。
多くの方が観ていられる理由は簡単だった。壇さんと池辺さんの軽妙で、絶妙な傑作トークをのぞいてはあり得ないのだ。世界の番組でもこんないい味を出せる番組はそうないんじゃないかと思った。 あの清純無垢を思わせた美少女も、年を経てこんないいぼけ味も出てくる。ユーモアという神様は、ほんとはあどけなさや、おおらかさ、純朴さを愛していて、大の人好き、お人好しでなければならない。お二人はその神様の下でいいあんばいなのだ。
そういえば、ぼくが知ってるN響のメンバーの方もみんなユーモアの神様のしもべだ。それぞれ皆さんお弟子さん筋にとっては雲の上の人でありながら、ご本人はみじんもそんなこと考えてない。N響=東大卒みたいではないのだ。N響のことを皆さん「会社?」とおっしゃる、この一言に悲喜こもごも込められて、ここにユーモアきわまれり。
しかし皆さんのミューズへの限りない愛と誠実さには誰しもが、頭を垂れる。ミューズへの愛は、半端ではつとまらない。そりゃなんといっても、ミューズとは、実は僕たちの命そのもののことなのだから、命がけにならざるをえないのだ。 彼らのユーモアとは、その大業を見事なした後の青空みたいなものなのだろう。それはご褒美みたいなものなのだ。 と言うことで、壇さんも、池辺さんも同類、同じ穴の狢みたいなもので、皆さん一つ輪の中で踊っていた。
お二人を、富士五合目の神秘なる樹海と古来からの修験道の聖地“小富士”にご案内したときも傑作だった。 富士は外から見ても私たちの目と心を釘付けにするが、いったん中にはいるとそこはもう想像を絶する別世界である。サスガ“世界のMt.Fuji”だ。
そして、やはり初めての樹海はお二人にとっても、すごかった。壇さんは、いつまでたっても歳をとらないその美しい瞳をさらにつぶらにし、池辺さんは感極まって、「だじゃの天才?」のだじゃれが止まらなくなってしまった。 「壇さん、そこに“段差ん”があるから気をつけて」「?*?@×…、くやしい、いいかえせない!」
以前、ソプラノ歌手とお弟子さんたちを小富士にご案内したことがある。あいにくの濃霧に富士山頂は見えなかった。でもせっかくきたのだから、記念に富士山に捧げて歌いましょう、と言うことで先生が『アヴェ・マリア』を歌い始めると、富士の不思議を多々経験した私もビックリ、山頂に向かう歌の道が、ちょうどモーゼの紅海の海わけのごとく霧を開いて山頂が見えた。これには全員が感動して、「じゃ全員が横 一列になって歌えば、もっと霧が晴れてもっと見事に見えるわよ」と、子供っぽいアイデアがひらめいたのが悪かった。全員で歌うと、見事に霧はそれに答えて、奇跡的に開いた道を閉じてしまった。「霧にも芸術性が分かるのよ」ということで、全員ガックリきてしまった。 これを聞いた池辺さんは一言、「それはヘンデルを歌うべきでしたね『ハレルヤ』 を」。?さすがァ!
数年前大きな話題になった宮崎駿の『もののけ姫』に出てくる“しし神の森”そのもののような樹海には、静謐が満ちていた。 しかしそれはあらゆる営みをはらんだ静謐で、私たちを打つ気迫が違う。お二人もその気迫に圧倒されたようだった。人が感じるということは実に不思議なものである。別に“気迫”というものが目に見えるわけでも耳に聞こえるわけでもない。でも私たちは全身全霊でそれを感じ取る。
富士を眼前に対すると、どなたも感動される。感動の中身は、その方の人生を経てきた積立貯金でおのおの違うかも分からない。(ま、現実の預金高が違うのと同じですね?) しかし、もしその時どうですか皆さん、富士が今の三倍もある高さで迫ってきたら。 きっと私たち全員そろってのけぞりますね。もうそれは、自分が無にも等しいものになって、「神様!」という言葉しか許さないような体験になる。私も若いころエベレストを見た時そうでした。 宇宙に出た宇宙飛行士の方の感想を見ると、全て個性が違うにかかわらず、たった1つの答えしか返ってこない、「神のみ顔に素手で触れたような!……(沈黙)」。
巨大な感動は、個を超えてしまう。もう、個性というものでは対処できないことが、 私たちの中でおこってしまうんですね。なにか、過去、現在、未来を通時する壮大な 人類という一つの生き物となって、宇宙の中に立ったような爽快な気分になる。 テストは100点までしかありませんが、私たちの感動する力には限りがない。こんな 大空を自由に羽ばたけるパワーが、ライフエナジーに支えられて私たちに内在し、大自然の気迫と対になってる。
私たちの富士体験は、皆一人一人宇宙を背負って立つ宇宙戦士にでもなったような晴れがましい気分になって終わったのでした。