乾 孝・範子

乾 孝・範子 / 児童心理学者・ヒューマニスト

若い頃、鎌倉山の乾先生のお宅に居候して、お世話になった。
二十歳代特有の、右も左も分らずうろうろしていた時期であったが、あの鎌倉時代に私の種が蒔かれたと思っている。

鎌倉山は、鎌倉の中でも古くからの由緒ある住宅地で、美しい緑の小山に名のある方々の邸宅が点在していた。
先生のお宅は木造の二階屋で、二階からは、大島まで眺望できた。
居間に大きな掘り炬燵があり、先生はもっぱらそこで食事を共にし、歓談し、原稿を書き、来客を持てなした。
老いも若きもたくさんの人々が訪れ、こたつを囲んだが、先生の中に流れている時間だけ皆と違っていた。
手の届く範囲の先生の本や、文箱なども同じミクロコスモスを作っている。

戦中、戦後、時代の動乱の中を、ヒューマニティーを守り通し、鍛え抜かれたものが、先生という入れものの中で、精神として金剛不壊に生きづいていることに、私は畏敬の念を深めていった。
人の命を貫く、目に見えぬ精神という存在の次元を思い知らされた。
しかしその強いものは、もっとも柔らかいものに守られている。

朝毎の夜明けの汚れなき光りと同じく、人の中のまだ柔らかい肌をした、無垢な子供心にその足場を置いていた。
メメント・モリでは決してなく、一つ生命の発露したその神秘の瞬間、そのもっとも偉大な一点に常に目を注がれた。

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