夢みることこそは、生きてる証しです

「 砂漠の写真、なんかダリの絵みたいです

  彼もここへ来た事があるのでしょうか 」

 (タカ様より)

‘ダ リ’、… よく見ると本当にそうですね。
あのラクダの影のような足の長い象がいましたし、その頭骨から覗き見た砂漠の上には、歪んだ時計が出てきそうで、シュールです。
たしかに砂漠は地球で、日常の生活空間の対極にある、無一物という一番シュールな空間ですから、その純粋さは彼の憧れだったのでしょうか。

画家のパウル・クレーや、『知恵の七本の柱』を書いたアラビアのロレンス、ポール・ニザンや、あのランボーまでも、この純粋さに魅せられました。
ダリの足の長いやせこけた象が歩いてたのも、歪んだ時計も砂漠に生息していましたね。

たしかにあの象の足は、ラクダの足を思わせます。
そしてラクダの足は‘ 砂漠の船 ’と云われるだけあって、周りを砂漠の雰囲気に変えますね。

ところで、ベドウィンにとって、ラクダは命の糧、彼らの全てと云っていいぐらい大切です。
ラクダあっての‘砂漠の民’で、彼らは自らを‘ラクダの民’と言っています。

砂漠の不毛は、何者も侵し得ない国境として彼らの王国とその血の純潔を守り、解剖学的には筋と血管と神経しかないといわれる彼らの身体を作りましたが、ラクダは彼らの生活を創りました。

彼らは、砂漠で水を飲まず、井戸の水はラクダのためにあるのです。
彼らはラクダのミルクを飲み、皮で衣服を、その毛でテントを、糞は燃料、尿は貴重な医薬とします。
彼らの集いは、ラクダの肉で祝福されます。

しかし驚いたことに、彼らは私財を持たず、ラクダはもちろん、火さえ部族の共有財産なのです。
それは農耕民と違い、生産力のない彼らは、私財を持てるほど豊かになりえないからでもありますが、2ヶ月のキャラバンで大砂漠の天地を彼らと共にするうちに、私にはむしろ、この無一物の風土から学んだ、彼らの人類史を見通した大きな叡智であるように思えました。

たとえ百家族いても、トンカチは部族に一つあればいいのです。
それは、地球の資源を強欲に略奪しない、貨幣のいらない生活です。
このような生活形態は、南太平洋の島々でもそうでしたが、この地球上に今でもあまたあるのでしょう。

彼らは、それでも健康に生き、子供を育てられればいいのであって、富の余剰の代価である貨幣のためには働かず、それの為についやす時を失わなくて済むのです。

砂漠の無一物にも等しい清貧に徹する彼らが働くのは、その言葉の原義どうり、ハタ ( 傍 :自分以外の周りの人たち)が、ラク ( 楽 )になるためだけでした。

砂漠の夜は、ときおりいななくラクダの鳴き声以外は、風さえ音もなく広大な静寂に包まれます。
そして大気の湿度がないため、天頂から地平線まであまねく蒔かれた星塵の一つ一つの奥行きの違いさえ見えるほどで、その漆黒の吸い込まれそうな奥行きの深さは、静けさの深さを更に増しました。

やがて、夜の時が進むに連れて一枚一枚ヴェールを重ねるように、静寂の濃度が極まると、それは何者かがあえて沈黙しているのだといった気配を漂わせはじめたのが、肌に触れる夜の冷気を通して分りました。

そして、そのはち切れんばかりにふくらんだ沈黙するものから、永遠・無限の香りが漏れてくるのを感じていました。

焚き火の周りに漂うその香りの中で、彼らの話しを聞いていると、彼らの心の中に、豊かに蓄えられた時が、風船をふくらませるように言葉を満たし、言葉は聞き惚れる私を連れて、故郷に帰るかのようにその香りの中に溶けていくのです。

彼らが持つ豊かな時で為したことは、それこそアッと驚くほど素直で単純なものでした。

それは、心が喜ぶこと…夢みることだけなのです!
人は、それをなさんが為に生まれてきたとでも言わんばかりに、夢みることこそは生きてる証しだ、と彼らは云います。

砂漠の灼熱は、豊かな上昇気流を生み、風を自在に操り、人の身に余る限りなく広大な天空に、彼らの魂を運んでいるのです。

海や砂漠をわたる風に聞くことは数限りなく、未知の香りを教えます
星に捧げる願いの、尽きることはないでしょう
曙に祈りを、月には思いをささげ
花の香りに心をつつみ、小鳥の歌にはくすぐられ、微笑みの行き交う道は、人のたえることはないでしょう
風が書く砂の風紋が尽きないように、彼らが紡ぐ物語に終わりはないのです。

彼らの生活になじむうちに、私がまるごと引っ掛かってた、貨幣のトリックを見抜けてしまいそうに思われました。
ちょうど、宇宙から見たら、地球に国境線などないのと同じように。。。

彼らと旅をする中で、私が一番ショックを受けたのは、【火】でした。
部族の種火は、4千年、5千年を絶えることなく生きていると云うのです。
それが真実なら、彼らはアダムにまでつながる血統図を誇りますが、その火はプロメテウスから直に手渡しされたものぐらいの値打ちを感じます。

その火を見つめていると、5千年を生きてきた偉大な生きもののように揺らめきます。
思えば、私たちの中に灯っている命の火も、人類史を、過去4万人にあまるであろう人の命を連ねて一度も消えることなく、1,000,000年燃え続けて、いま私の中に生きていることに気づかされました。

さらに云えば、この類い希なる水の惑星に初めて生まれた、たった一粒の脈動するものから、37億年にわたる一条の火の道が、遠路はるばる私に至り、なお生き続け、燃えていることになります。

それを見つめた時、これをこそ‘ 聖火 ’と呼ばずして、何を呼ぶのだろうと思いました。

そう思うと、私はもう拝火教徒になってしまって、またまたじぃ~~っとその火を見つめるはめになりました。
たしかに彼らにとっては、我が命をも越えて神聖なものとされています。
大勢の祖先の血を初め、あまたの命そのものが、目の前の揺らめく炎の一すじ一すじとなり、ここに燃えているのですから。

その彼らの思いが伝わるにつれ私は、部族の長の印として、彼らの命を養うナツメヤシの墨に灯し、守られている目前の火が、もはやこの地の上にあるのではなく、宇宙の芯に、一つ燃えているもののように思えてきました。

日本では、安芸の宮島で1200年から守られている火が、一番古いのだそうですね。

いま地球上で、人間の生活様式といえば、私たちがおくっている日常が標準のように私は、それまで思っていました。

だが、‘ 100人の村 ’では、私たちの生活様式を維持するために必要な富を所有するのは、たった6/100人ぐらいなんだそうですね。
そして、その富を掘り起こしてくるのは、元はといえば100人全員に平等に分かちあわれるべき、この地球のお腹の中の限りある富!

そのパンを、6人は1/10ずつ食べ、他の94人は残こされたものを4/1000づつ分かち合わねばならないのです。
地球は65億に余る人を乗せながら、誰一人として差別しない、いわば、地球はどの一人をも区別なく、丸ごとその全身で支えているのに、このショッキングな数字はいったい何なのでしょう。

はたして、限りある地球の富を先き食いする飽食が幸せなのか、砂漠という最もその富のかけた地で、誇り高き生活を営むベドウィンに接し、目を遠くに仰がざるを得ませんでした。

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