「永遠がこちらを振り返った貌なのか」 山ホタルⅠ
中学生の亜里沙ちゃんと「蛍のお話し」をしました。
亜里沙ちゃんは、ご自身のお体のこともあって、のほほんと日々を暮らす私には思いもかけない、深いまなざしを持って、今日という日を見つめています。
お話ししているうちに、こんなに年が離れていても、考えさせられるや教えられるや、山あり谷あり、ドラマテックでミステリアスな体験をしました。
「私が生きてる今日という日は、昨日亡くなった人からすれば、その人が必死に生きたかった明日だと思う。」
「だから私には、その人の‘命の希望’が託された‘あした’が開くこの夜明けは、とても大切なものに思えるの。私の前に世界が、まったく新しく誕生するようにに感じる。」
「そして夜明けと共に、卵から世界とかの人の命を引き継いだ私が一緒に生まれる。だから今日という日は私の命そのもの。」
「この青い空も、このちっちゃなスミレの花も、あの空かける鷹も、お日様も、今 私の手の中を通りすぎていく風も、その姿をかりた私の命そのもの、私の命はそこにあると思ってる、ニシオカさんも加えてあげるね。」
と、亜里沙ちゃんは言います。
そのとき私は、人が大切なものを指すとき、その切なる思いをこめて「‘永遠’の…」と言う、まさにその、人の思いを絶する‘永遠’そのものが振り返って、私を見つめたかのような戦慄をおぼえました。
‘アァ、そうか、今日という日は、永遠がこちらを振り返った貌なのか’
この少女の清く澄んだ美しい瞳に触れた時、私は心の一番の芯を打たれて、‘一字の師’となる人に出会いました。
こんな思いを抱いたのは、私の終生の恩師となる故矢内原伊作に出会っていらいでした。
亜里沙ちゃん、あのとき蛍の話をしましたね。
今、美しく蛍の舞うのが見られるところは少なくなりました。
季節の風物詩として愛された‘蛍狩り’という言葉もあまり聞かれなくなりましたね。
でも蛍は、人の心をしてものの哀れに誘うのか、古より美しい詩歌に数限りなく歌われてきました。
ひとが蛍の火をを見つめる時、その明滅に人の命のあり様を思わざるを得ないのでしょうね。
物思へば 沢の蛍もわが身より
あくがれいづる魂かとぞ見る (和泉式部)
こゑはせで身をのみこがす蛍こそ
いふよりまさる思いなるらめ (源氏物語 蛍の巻)
音もせで思ひに燃ゆる蛍こそ
鳴く虫よりもあはれなりけれ (源重之)
夕されば 蛍よりけに燃ゆれども
光見ねばや人のつれなき (紀友則)
亜里砂ちゃんのご近所で蛍が見られるのは、とってもラッキーです。
それは‘ガイア’(生命体地球)の血管ともいえる川が、健やかに生きている証しです。
一条の川には、あまたの植物や昆虫や貝類や魚や小動物などが、互いに切れない共生を結び、総体で一つの生きものとしての生態系を守っています。
この感嘆すべきあり様は、一編み一編み腰の曲がるほど時をかけ、ただ一本の絹糸で綴られながらも、壮麗な薔薇窓を覆い尽くすほどの広がりを持つ、見事な‘糸の宝石’ベネチアンレースを見るような思いがします。
僕たち人もその総体に帰依する一つの細胞なら、母体となる自然が豊かに息づいているということは、心身ともに人が幸せになる必須の条件なのでしょうね。
僕もちっちゃな頃、よくホタル狩りに行きました。
田んぼを流れる小川の上をそこここに無数のホタルが乱舞して神秘的な緑の光が、魔法の夜を作っていました。とても忘れることの出来ない夜です。
捕ってきたホタルを蚊帳の中にはなって、寝ながら見つめ続けて見飽きませんでした。いつも心の中に甦る宝物のような体験です。
‥‥・つづく・‥‥