天使に導かれて…

深海に至る

拙文にかかわらず、いつもお目を通してくださいますご厚意を、深く感謝しています。
お一人お一人のご感想に、とても心うたれます。
そして思いが巡り巡りしているうちに、日が暮れて(笑)お返事が遅くなり、申し訳なく思っています。

お許し下さい、でも、思っています。心に受け取っています。
ぜひ、お返事させてくださいね。
どうぞ気楽にご感想をお聞かせ下さい。

:。.:・’゜☆。.:・’★。、:。.:・’゜☆。.:

モーツァルトさん

「よく考えれば、私は決して死なないですね。
私の死は、決して私は認識できないのですから」
との指摘は私なりの生死観の中には全くありませんでした。
指摘されればその通りだと思います。

:。.:・’゜☆。.:・’★。、:。.:・’゜☆。.:

ふたみさま、4月25日の日記 「いずみさんの青!」へのご感想をありがとうございました。

‘私の死は、決して私は認識できない’ これは、ごく当たり前のことですが、私が若いころ、赤道の海やサハラ砂漠やヒマラヤで経験したことで、若気の至りで、何回も死にかけた時の実感です。

若いころ海に魅せられ、10年ぐらいかけて、赤道を東はガラパゴスから西はアフリカ東岸セイシェルまで、ほぼ制覇して潜りました。

陸の30mはすぐそこですが、海は30m潜ると、4気圧の圧力を受け、普通の身体とは極端に異なり、命に関わる様々なキケンに見舞われます。
一番コワイのは、水圧で、吸った空気が頭のなかで笑気ガスに変わり、笑いながら計り知れない深海に落ちていくケースです。

導きの光

それは実に不思議なことが起こるのです。
タンクの酸素が無くなりかけ、命に関わる危機に陥るのですが、地上であれば起こるはずの恐怖や痛みが、深海では全く起こらないのです。

笑気ガスのせいでもあるのですが、恐怖や痛みを司る頭脳の領域は、大量に酸素を消費するので、私たちの心臓が勝手に動くように、頭脳自身が血流を止めてしまうからです。

痛みや恐怖がないので、危機を理解しながらも幽体離脱したような感じで、その経過をただ見つめているだけです。
そして、その意識も間もなく闇の中に消滅することを、その夜お布団で眠るかのように思ってしまいます。

目覚めないかも知れないと危惧しながらも、まるで夢の中でのように感じてしまい、危機脱出のために何かをしようという気持も起こりません。
雪の中に眠るようなものでしょうか、生死の境がにじんで、それほどの一大事とは思えなくなるんですね。

ところが、その時、そのまま恍惚として深い青の中に溶けてしまいそうな私に、思いもかけないことが起こったのです。
まさに、私の身体を稲妻が貫き、覚醒しました。

我 思 う 故 に、我 あ り

このデカルトの有名なテーゼに、貫かれたのです。

若いころ、彼の’方法序説’を読み終わるのがもったいなくて、一日1ページと決めて読みました。
人はこれほどまでして、思うことを尽すのか!と、道に迷う荒んだ心が涙しました。

サルトルといい、デカルトといい、しょっちゅう涙してるようですが、ひどかったのはメルロ・ポンティのたった48ページの「眼と精神」、この世界で最も美しい本の一つといわれるものを、学生時代の4年かけても読み足らず、今も目の前の世界の中に読み解いています。

ところで、ナゼ!、命の瀬戸際に、そんな言葉が?、
ニシオカさんの頭、よっぽどヘンなのね、と笑い話なのですが、言葉が人を助けることは多々あります。

幼い頃、訳も分らずたたき込まれた箴言名句が、全く忘れ去った後に、ある経験をしたとき、思いもかけず甦り、アッあの言葉はこの事をさすのかッと、その経験の意味を教え深めてくれることがあります。
そのようにして人は言葉に導かれ、また言葉は経験によって成長し、最後は人の心の中に見事な大木の美しい森となるのでしょう。

デカルトのテーゼは、【 思う = 在る 】ということで、人の心は、この大宇宙 ( Universe ) と同じく、一つの完結した宇宙 ( cosmos ) なのだということを教えました。

死が、いわば生の領域の外を包むものとすれば、現実の宇宙に、宇宙の外というものがないのと同じく、私たちの心の宇宙にも外はなく、あること(生てる)しかないと啓示したのです。

一つだけ違うことは、現実の大宇宙には、永遠・無限は存在しませんが、人の心という宇宙には永遠・無限さえ住んでおり、天空の明星のごとく人を引きつけてやまないことです。

もちろん、物理的には、肉体の生死はあるでしょう。
しかし、人が‘ 私 ’と云ったとき、その肉体を指すのではありませんね。
植物状態となった生命は、もはや‘ 私’を失います。
それでは私は?、となると、やはり ‘ 思 う ’という王国の住人だ、ということにつきるのではないでしょうか。

だからといって、肉体に私との繋がりがないわけではありません。
肉体には、私がこの世界に錨を降ろすという、この上なく大切な役割があります。
でなければ、人は糸の切れた風船となり自我をも失うことでしょう。

未知なる領域


命の危機のまっただ中で、その言葉に貫かれた時、私は私を救うのでなく、この大宇宙と共に存在する類い希なるミクロコスモス、この輝ける宝石を救わねばと、まるで神様になったかのような使命感につらぬかれ、そして私にその力の起こることを祈りました。

しかし、その時、私は見たのです。
私の意志とは関係なく、私の足が緩やかに水を蹴るのを!

もしその時、私が意識して水を蹴っていれば、今 私は存在しません。
普通は、一刻も早く水面に出なければ死ぬとなれば、必死に水を蹴るでしょう。
でもそれは返って反対に死を招くのです。
命の要である心臓と頭脳に使わなければいけない酸素を、足のために失うからです。

誰が私の足を動かしているのか?、私を運ぶ者を私は決して私とは思えなかったのです。
そしてしばらく後、中性浮力のため全く上下左右のない、濃紺の身を包む闇の中に、ほのかに美しい青の光りのグラデーションが、虹がかかるかのように現われてきました。

私は、その青のグラデーションの澄む方向へ、光の方へ静かに運ばれていく私を、見つめつづけていたのです。
やがて、私はまったきの光の国、私たちの世界への出口、海面にいたる事が出来たのです。

そこは、まさに光り輝く天の園以外の何ものでもありませんでした。
そしてまた、その国に手を取り導いた者は、天使以外の何者とも思えませんでした。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です