“ そを人は知らず、我は知るなり ”

ゴーギャン作

私が、圧倒的なサハラの偉大さの前で体験したことは、私の日記に、いつも心うたれるコメントを残してしてくださるOlive様が、お話しくださったことでした。

『 ヨセミテ国立公園に行った時、あまりの自然の大きさ、迫力に圧倒され 自分(人間)の存在の小ささに恐怖を覚えました 』

まさにその通りの、自分が消失してしまいそうな恐怖に襲われたのでした。
さえぎるもの何一つない360度の天地の巨大さのまえには、私たちの慣れ親しむ、いかにも人の身の丈にあった手頃な空間意識は、完全に壊れてしまいます。

私たちが、日ごろ目のいきわたる町の感覚で世界を見ているとすれば、サハラは、雲一つなく晴れ渡る富士山頂で見る下界の、水平線の彼方に地球の丸みさえ見える、見晴るかす彼方までの広大さです。

そして、なによりも空の高さが、圧倒的に違います。
私たちの町の青空は、大気層最下部の対流圏でもかなり下の湿度の高い層の水の分子に散乱されたものを見ています。

砂漠の空は湿度が極端に低いため、飛行機の上で更に見上げる藍空のように、空の果てに限りが無くなってしまうのです。

見えてるものを空と指せず、地と指せない、このような日常感覚を断ち切られた場に入れられると、日常性の喪失と共に人は自らのパーソナリティの属性も、お風呂で服を脱ぐように失って、もはや裸一貫、身を守るもの一つ無く、生命そのものでしかなくなります。

ゴーギャン作

そして、この生命は自分の意図で創ったわけではないので、なぜここにあるのか訳が分からず、偉大な存在を前に畏怖の念に打ち震える頭の中に永遠の?マークが灯ってしまったのです。

そのとき、その?のあまりの大きさ深さの前に自らの非力を感じ、その問いを忘れさせてくれるものに没頭し、遁走しそうになりました。

ところが、そんな私でも反対に、自らの中に宿る疑うことのできない、生命の切実な無垢な営みに励まされ、?を見つめ続ける勇気を奮い起こすこともできるはずだと、ほのかに予感したのです。

その勇気は私たちの中に、思いもかけず、天に向かって放たれた矢のような、強い憧れを生み出し、その彼方に確かな一点の光りが感じられるように思ったからです。

この事を印象的な言葉で、コメントを残してくださったさら様が教えてくださいました。

“  中心におかれるもの  
すべてを請け負い 反転させる軸を
自分の中に持ちたいものだと思いました。 ”

まるで、オセロの黒を一瞬のうちに白に変えるように、同じ一つのもの事の意味を変えることが、人には出来るのだという希望を教えてくださったのです。

ところで、サハラの壮麗な銀河の無垢な輝きに日々励まされる中で、人が命の意味を覆うとする闇を払い、命そのものが持つ生み出す力を借りて、白光を発するものに変えるためには、どうしてもくぐらなければならない門があるように、思えてきました。

それは、灼熱に焼かれ、喉の渇きに苦しみながらも、今この場に人はこんなに真実に生きてあるのに、イザその在ることの由縁を問わんとすると、その全てをあからさまにすることがどうしてもできない、という謎の門でした。

人がある時、何千年も昔の神韻縹渺とした遺跡を訪ねたおりに、ふと苔むした壁面に、模様と見まごう文字が刻まれているのを発見し、何だろうと注意深く苔を払うと、

【 D’ou venons nous ?  Que sommes nous ?  D’ou allons nous ?】

このような文字が浮き出てきたら、どうでしょう、それこそ目が点になりますね。

ソクラテスが、その哲学の出発点となした云われるデルフォイのアポロン神殿の壁面に刻まれた

【 ΓΝΩΘΙ ΣΕΑΤΤΟΝ 】(グノーティ セァウトン)

汝 自 身 を 知 れ

という言葉と同じく、神託のような重みを持ち、雷のように人の心をうつでしょう。
そして、この問いかけが頭の中に刻み込まれ、そのオベリスクの周りを、終生人は巡ることになるのではないでしょうか。

【我らいずこより来たるや 而して何者なるや また我らいずくへか去らん】 
このゴーギャンの絵の題名としても有名な、全ての人たるものへの問いかけの言葉の前で、私は呆然とたたずむしかありません。

旅人に三つの問いかけをし、答えられぬものを喰らったというスフィンクスと同じく、答えられぬ私はこの言葉のなかに、ほのかな死の匂いを嗅いでしまうからです。

しかも、幼い頃読んだ聖書の中で、キリストが、

そを人は知らず、我は知るなり

と、人に告げるのを読んだとき、その衝撃で天地がひっくり返ったトラウマが、心の中にしっかりあったのです。

ゴーギャン作

はたして、この有名な問いは、人類にとっては永遠に解き得ぬ謎となるものなのでしょうか。

もしそうなら、それは人のみか、銀河系という無数の細胞より成り立つ、一つの生きもののようなこの宇宙でさえ、人と同じくこの問いには悩まされることとなるでしょう。

そして、、なぜ人は知り得ないのかと問えば、そのことわりはアッと驚くほど実はシンプルなのです。
今、目の前に精緻を極めた美しい香水瓶があるとすると、人はその全貌を見、その美しさを愛でることができるでしょう。

それと同じく、もし私たちが、この宇宙の中でなく、その時空の外にいるのなら、私たちは宇宙が精緻な模様の因果律を粛々と編んでいく見事さに目を見張り、自らの由来、その位置、そしてその意味の全貌を眺めることができます。

ところが、もし人がその香水瓶の中にいるとすれと、人はその全貌を、またなんの中にいるのかさえ見知ることは出来ません。

私たちが無から生まれ、また無の中に消え去るように、種としての人類も同じく、更にはこの宇宙さえ終結を迎える時があるのなら、それら全ての一瞬の光芒の何のためにあるのかを、それぞれは自ら知ることはないでしょう。

いったい神様は人に、もの問う本能を与えながらも、ミノタウルスの迷宮に、ついにアリアドネの糸を失う宿命を与えられたのでしょうか。

つづく

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