物質の対消滅により誕生する光り

漂泊の思いやまず   日々旅にして、 旅を栖とす

この芭蕉の言葉に習い、リュックの中は隠しもできぬ命一つで、赤道地帯を放浪した日々は、いまや私の中で、過日の栄華に満ちた黄金の季節となり、時に熟成されたその芳醇な香りに包まれるたびに、不思議な望郷の念に駆られます。
十数年の旅のどの苦楽の一日も、汲めども尽きせぬいずみのようです。

私どもから歩いて10分、小高い裏の丘に登ると、眼下に三日月湖といわれるみずうみから、眼前の富士をはじめ、遠くは南アルプスまで一望できる絶景の場があります。

折々に、この丘に上がると、空の広さに触れるだけでも、心を感嘆符で新にされますが、その富士を芯に置いた広大な空のキャンバスに、日々刻々と描かれる雲と光りの饗宴一つ一つが、つい昨日のように旅の中に忘れものされた心を呼び戻します。

命がおおらかに息づく赤道の旅では、人はこんなところにも住むものかと思うほど、あらゆる場に人の暮らしがありました。
そこにつつましく生きる人々は、太古以来の風土の、山や川や森と同じ不可欠な点景として風景にすっかり溶け込んでいました。

もう日本では、とうに失われてしまった、昔ながらの変わることなく繰り返される素朴な暮らしが、栄えある神々の豊かな神話や伝説に守られ、大自然と共に生きる叡智から生まれ出た風習とともに、今もこの同じ時代に営まれています。

人々が伝える美しくもまた不思議な様々の風習の中でも、とりわけ私に強烈な印象を与えたのは、若者が部族の大人の世界に迎え入れられるための通過儀礼(イニシエーション)の風習でした。

ネイティブアメリカンのある部族の若者は、弓矢と火をおこすヤジリだけを携え、荒野に3ヶ月たった一人で生きのびねばなりません。
その試練の始まりの日から、村人総出で迎える聖地での成就の暁の日まで、彼の心の中には、どのようなドラマが起承転結するのでしょう?
荒野における彼の心の旅路の果てに生まれる明星に、思いを馳せざるを得ませんでした。

民族の文化や伝統の何千年にわたる不文律が、このイニシエーションの試練を通じて、一人の若者の生身の命に刻みこまれます。
命の火が手わたしで世代を伝えられていくように、心の灯となる古代の叡智が命から命へと伝えられていく有り様を観て、人は日常の時に重ねて、時を貫く、曼荼羅のように壮麗な神話的領域をも生きるものなのだということを、私は知りました。

それは、雪解けの大地を穿ち、初めての太陽のまぶしさの中で、すっくと双葉を開く野の草たちのように、地の万物が億万年絶えることなく、宇宙のまっただ中で歌う生命讃歌の隊列に連なるものでした。

星満つる天が下、水が流れ、雲は湧き、火が起こり、風立ちぬ、森羅万象の一なる摂理に従い、喜々として自ずから然りと為す営みに似て、これもまた揺るぎなく大いなる営みといえるでしょう。

彼らの土にまみれ、泥に汚れる身の奥には、この大河の流れに洗われた、何ものも穢すことのできぬ清々しい清らかさがありました。
その肌に刻まれた無数のしわは、千年二千年と風雪に耐えた大樹の、地帯類や苔に覆われた木肌を思わせるものでした。

旅の日々に出会った彼らの瞳の奥に宿るものは、彼らの生きる風土の神髄であり、彼らはもはや人を越え、豊饒なる海の、神秘の森の、また峻厳たる山岳であり、不毛の砂漠そのもの、それぞれの風土の化身であるかのように生きていました。

地球のあらゆる地で民族の未来を託するためになされる、この白刃の門をくぐるようなイニシエーションの厳しい試練が、まさに彼らを作りあげたのです。
その試練の旅路の果てに生まれたであろう輝きは、いったい彼らに何を伝えたのでしょうか。
若き釈迦もイエスも荒野を彷徨されたのち、暁の明星を観て道を開かれたといわれています。

私の生地四国では、山野の荒行の最後の場を求められた空海が、太平洋の荒波が穿った洞窟で、曙に先立ち水平線より昇る明けの星の眩いばかりの妙光に射られて、悟りを開かれたと伝えられています。
かの若者も、最後の試練は、星宮の運行を石組みで記したゆかりの聖地で、曙の星を仰ぐことだそうです。

今も空海の洞窟は、太平洋の怒濤に洗われる室戸岬にあるのですが、中に入ると真っ暗闇に絶えることなき潮騒の脈動がこだまし、何か巨大な生きものの体内にいるような錯覚に陥りす。

その中で、潮が高まる如く、いつしか時が満ちたとき、天に向かって穿たれた洞窟の入り口に、白金に輝く星が現われたとすれば、空海ならずとも誰しもが、訳も分からず心を真っ白にされてしまうことでしょう。

この茫漠たる闇のただ中に突如出現する一点の光りは、この宇宙の中で、物質と反物質が出会ったとき、互いの‘対消滅’により誕生するという‘光 り’の本性そのままに、人がアッ!と息をのむその瞬間、オセロの黒を白に反転させ、実在を支配する時系列を断ち、因果律のくびきを放ち、人の心を虚数のよ うな永遠性で満たすのでしょう。
そのとき、白昼の空虚のような人の心のスクリーンは、何を写しているのでしょうか。

曙の清浄な光りの中にも、明星は消え去ることなく、何かの啓示を内に秘めた命のようにチロチロと燃えています。
これは、真昼でも天体望遠鏡で、太陽の横に眺めることができます。

美しいチュニジニアンブルーの地中海に面した古代カルタゴの遺跡から、アルジェリア南部の荒涼たるホガール山地を経て、第二の大地溝帯と云われる 200㎞に及ぶバンディアガラ大断崖の奥地に、星の神話を生きるドゴン族を訪ねる砂漠の旅は、私には思いもかけず、イニシエーションを体験するような心の 旅路となりました。

思えば、あまたの旅はこのような体験するために、人を呼ぶのでしょう。
更には人生そのものも、日々その門をくぐる旅なのでしょうか、遠くサハラに発したこの道は、私の中では今も終らず、目前には地平線の彼方まで更なる道が続いています。

この遥かな眺望を目にし、果てなき道を思うとき、“ われ山にむかいて目をあぐ わがたすけ いずくよりきたるや ”との感を深くせざるを得ません。

そして、サハラの旅路の最初の試練は、その出立直後に早くも私を訪れました。
それは、日記に美しいコメントを残してしてくださったOliveさんが、お話しくださった体験そのままでした。

『 ヨセミテ国立公園に行った時、あまりの自然の大きさ、迫力に圧倒され 自分(人間)の存在の小ささに恐怖を覚えました 』
実に、この畏怖の念こそが、イニシエーション参入の偉大な第一の関門でした。

サハラ砂漠を初めて訪れた者を最初に襲うのは、その前には自らを消失してしまいそうにさえ思えるほどの圧倒的な砂漠の存在感です。

さえぎるもの何一つない360度の地平線という場を私たちは持ちません。
この天地の巨大さのまえには、私たちの慣れ親しむ、いかにも人の身の丈にあった手頃な空間意識は、完全に壊れてしまいます。

このような日常感覚を断ち切る場では、その喪失と共に‘私’をも、まるで服でも脱ぐかのように失って、もはや身を守るもの一つ無く、生命そのものでしかなくなります。

しかも、この生命は自からの手によるものでなく、気が付けば既にここにあり、なぜ宇宙の一点、今ここにあるのかを答えることができません。
そのとき人は、その場においても、また自らの命の中でさえエトランジェとなり、寄る辺を失う恐怖を招くのではないでしょうか。

しかし、この恐怖の底を見据えることこそが、イニシエーションの第一の試練となりました。

…‥‥・つ づ く・‥‥…

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