我は天と地の子なり、されどわが血統は天に属す

“ ゆ き は な ”、この言葉に触れる毎に、美しいなあ!と思いがふくらみます。
まるでプルーストのマドレーヌのように、いろんな思いが溢れてくるのです。

ここ山中湖は標高1000mあり、雪の量そのものは少ないのですが、気温が低いので、冬の季節、富士と共に雪が様々な美しいものを見せてくれます。

冬の夜明け、赤富士の見える大きな窓に、よく一面ゆきはなが咲いています。
寸分の狂いもなく完璧な羊歯状六花がどこまでも伸びて、その見事な花園に目を奪われます。
そして、その精緻なレースの向うには、霧氷の森が朝陽に無数の煌めきを放ち、虹色の光りの森と化しているのです。

いつもそれを見つけた時、シマッタ!と思います。
人が夢の中に憩う間に、それは種から芽を出し、分度器で測ったように正確に、六方にその枝を伸ばしていきます。
このミクロコスモスのひめやかな営みの一部始終を、息を殺して見つめていたい。
音もなく為される秘め事の中で、静けさが深まり、ついには聖なるものに変容する、その瞬間に出会えるような気がするのです。

昔サハラで、朝目覚めた時、身の回りぐるり360°の砂漠が地平線のかなたまで、天の物差しで測ったような精緻な風紋が描かれていて、たった一晩のこの魔法に茫然自失したことがありました。

自然が自ずから然りと為すことですが、そのあまりの見事さに、その摂理の向うに美しき大いなる意志を感じざるを得ません。
そしていつか、その偉大な技を為す、目に見えない当の本人に出会ってみたいと願うのです。

ユダヤの聖燭台のような美しいシンメトリーの影絵のシルエットを作る落葉松の林は、高地の冬の風物詩です。
その枝先には夜、無数の煌めく星の花が咲きます。
落葉松の枝と星の間には限りなく距離があるはずなのに、まさしく落葉松の枝先に咲いた花としか見えません。

昼間の見知った世界が、夜には地の上の全ての枝に無数の光りの花が夜ごと咲くのか…、なんと壮麗な!と、一瞬目くらましにあって見知らぬ世界に迷い込んだような気になります。

普段一つと思っているこの世界に、いくつもの美しい世界が重なりあって、本のページを繰るように人が思いを変えた途端、万華鏡のミクロコスモスが瞬時に変わり、全く新しい世界を見せるように変わるのだと思いました。

確かに、それは一つの錯視ですが、世界を美として受け取る一つの術でもあります。
それというのも、元々私たちの視野は物自体を見ているのではありません。
物自体には、裏側もパースペクティブもないですね。
この見えてる世界は、己のちっちゃな目とこの頭蓋の中身とで創り上げる、一つ視点から始まる遠近法を持った、私だけの世界です。
ゆえに目を閉じれば、なくなります。

しかし、この広大な空を見れば、私たちのこの見る力のいかに偉大であるか、身一つに与えられたこの奇跡の前に戦きます。
そして、瞳を開いた世界が人一人がつくる私の王国であれば、その世界の意味あいを自在に変え、美しいものとしてその富を増すこともできるのです。

美として心に受け取られたものは、その大地を豊かにし、その生み出す果実をより滋養あるものとなすでしょう。
それは、魂の糧となり、いつの間にか私の本体である魂の有り様を変えていきます。

見上げる星の花から、やがてひとひらひとひら、柔らかいほのかな光りを含む無数の天使が舞い降りて、雪花が降ります。
そして聖なるお宮を作るかのように、落葉松の林を変えていくのです。
林は雪化粧の白い光に包まれて、その森閑として汚れなき有様は、まるで日本書紀にいう、神霊が人前に示現することなく永久に鎮まる“かくれのみや”(幽 宮) のようなものとなっていきました。

はて?、このあり様は以前どこかで見たことがある!と、記憶の中を捜してるうちに懐かしい思いが甦りました。

それは、サハラの苦難の旅の果てにたどり着いた、地球の裂け目といわれるバンディアガラの大断崖に住むドゴン族の村でのことでした。
美しいシリウスの星の神話を持つ民族ですが、その神話の教える秘儀を為す聖堂は実に不思議な場であったのです。

断崖はサバンナの尽きる地にあり、見上げるような頂きからサハラが始まります。
夕闇が迫ると、彼らは松明を持ち、断崖のジグザグの階段を登り、頂きの向うの砂漠の聖堂に向かいます。

サハラ砂漠は湿気がないため、大気中の散乱光がなく、あまたの星が輝こうが漆黒の闇です。
しかもその黒は、月面で見上げる宇宙のように、限りない奥行きさえ感じさせるのです。

あたりはもう天も地も黒一色、断崖の頂きと夜空の境も定かでなく、ただ全天を埋め尽くすあまたの星屑が空のありかを教えるばかりです。
松明の火の列は、やがて頂きの向うに消えていきました。

しかし、下から見上げるその火のゆくえはどんなに目をこすって見ても摩訶不思議 !?、松明が一つ消える毎に、天と地の境の星屑が一つ生まれるように見えるのです。

人の火が、天の火に変わるのだ!、今この場で思えば、子供じみた感動です。
しかし、あの圧倒的なサハラの何ものも穢し得ない無垢な場にあると、人一人そこにいることですら、火星に生命を発見するほどの驚天動地のできごとなのです。
全てが奇跡の衣を身にまとい、この子供じみた感動も、魂の場では大切な意味合いを帯びてくるのです。

彼らの砂漠の聖堂は、サバンナから運ばれた土で作った、茶筒のような円塔でした。
彼らの住居を巨大にした様なものですが、枯れ枝で吹いた屋根がなく、壁に様々な形の無数の穴が開けられています。
夜の砂漠の空は、私たちが日頃見上げる夜空とは違い、一つ一つの星の奥行きの違いさえ見えるように立体的で、リアルなまさに宇宙の場だったのです。

彼らは、まずこの宇宙の中の聖堂の前で、仮面の踊りを踊ります。
そして自らの、昼の自分を捨て去るのです、更に人であることも捨て去りました。。
そして、あのスフィーの回旋舞踏が踊り続けるうちにいつしか宙に浮き、螺旋を描きながら天に昇っていくのと同じように、その聖堂に上がっていきました。

ふつう、各民族は自らの宗教的な秘儀の場には、決して部外のものを入れません。
特にドゴン族のような、頑なに何千年前からの自らの風習を守る民族では、ことさらそのタブーは厳しくなります。
しかし、彼らは私がサハラを渡ってきた者であることを知り、その秘儀に触れることを許したのです。

聖域は、一線越えると別世界とはよく言われることですが、聖堂の中はまさにそのとうりでした。
お昼に入った時はナンのことはない、ただがらんどうの壁に無数の穴が穿たれた、屋根のない巨大な円筒でした。
しかし、こんな場が何故聖域なのだろうと腑に落ちなかった、まさにその場が一変していたのです。

そこは、星々のお宮でした。
あの落葉松の星の花とおなじ事が起こっていたのです。
外では星々は私から限りなく遠かったのですが、その中では、壁に無数に穿たれた穴に、壁紙の如く張り付いていたのです。
そして上には、壮麗な薔薇窓のごとく大銀河の天井がありました。
外では限りなく遠くにあった星々は、今や指呼の間、歩いていける距離にありました。

巧妙な視覚のマジックです。
しかし、その場で彼らの為していたことは、例えようもなく美しい、秘儀の名にふさわしい行為でした。
彼らはまるで、自らの花園の花を摘むように、壁の穴に張り付いた星々に手をかざして廻るのです。
そして摘み取った美味しい果実を食べるように、星を食べていたのです!。

そうです、私は確かに直感したのです、彼らは星を食べていると 。。。
しかし、それは食物を食べるという意味ではありません。
その時彼らはもう人ではなく、互いに相手に捧げる供物となっていたのです。

星も人も存在の有り様は違っても、光りと化した聖なるエネルギーの宿る場として互いに共振し合い、共に讃歌を捧げることにより、更なる高みにそのエネルギーを運んでいたのです。

壁に張り付いた星々は、彼らの手という透明なトンネルを通って、彼らの内側にある広大なミクロコスモスの天空に移り住み、彼らを内側から照らしているのでした。

魂が光に満ちて明るむことこそを、彼らは生きてると思うのです。
一点の陰りも彼らには病であり、闇に閉ざされることはそく死なのです。

昼の時は身体を養うためにあり、夜の時は魂を養うためにあるのでした。
そして彼らは魂を養うために、アダムとイブのリンゴの木と同じ、永久に尽きることのない宝庫をそこに持っていたのです。

そして彼らは高らかに歌うのです。

“ 我は天と地の子なり、されどわが血統は天に属す ”、と!

ゆきはなさま、たくさんの美しい夢をご覧になって下さい。

夢見ることこそ、限りある身に限られざるものを宿す、人の本望です。

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