宇宙の瞳 第一章
今この晩秋の季節の空は、とても魅力的ですね。
この季節ならではの‘ダイヤモンド富士’!、八方に光条が出る瞬間など皆既日食のダイヤモンドリングを見るのと同じく、ハラハラドキドキ世界が新しくなったような気がします。
光りと目に見えない空の水が織りなす夕焼けの金や茜や蘇芳に映える空を仰ぐといにしえの人々の西方浄土への憧れに、心が染まります。
双眼鏡でその極楽浄土を思うがままに旅すると、世の救いである光りの素顔に触れられて、人の中にはこの世より、もっと大きな世界が在ると教えられ、その気配に身を愛おしく包むまれます。
いちど試しにご覧ください。
(でも、太陽そのものはご覧にならないでくださいね)
丸い視野の中に、思いがけず光りの胞子が見つかるかも分かりません。
それが一番星です。
見つけたとたん、おもわず懐かしさに、大の大人の皆様も感~激!されると思います。
今の季節では、‘宇宙のダイヤモンド’織り姫星のベガですが、夕闇のなか白金にちろちろ燃える様には、命がせつなくなります。
そのベガから東の方へ、W字のカシオペアに向けて、星粒を探しながら歩いてください。
振り返るとあなたの足跡は、輝きを増した星々が描く、ハッとするほど美しい光りの大曲線となるでしょう。
やがて、東の夜空には金色の輝きを放つカペラが昇ります。
中指をカペラに合わせ、Vサインに開いた人差し指をそのまま南に延ばせば、そこにあるのがスバルです。
この時期のスバルほど美しい星はありません。
壮麗な大伽藍にたち昇る香煙のように舞うサファイア色のベールに包まれ、宇宙の神秘な紋章の主、馨しいトパーズ色のアルシオーネがあります。
その高貴な胸元を飾る首飾りに 、色とりどりの光りのしずくが統べられて、今にもしたたり落ちてきそうです。
これがスバルの名の由来です。
その光りのしずくをこの手にと! 楽しみにしていた過日の夜は冷え込んで、この時期には初めて雨混じりの雹が降りました。
夜半にはそれも止み、雲が切れた空を満月がスバルを過ぎてゆきました。
まさにその時、我が目を疑うことがおきたのです。
足下から地の果てまで、全てが光りの海と化しました。
地を敷き詰めた無数の雹が、少しの雨に透きとおり、月の光を宿したのです。
目をやるとこはどこもかも、何かの合図をするかのようにキラキラ眩しく輝きます 。
光りが生まれてこの方137億年! 自らの美しい属性の‘明るさ’を見つめる者が、宇宙の中に初めて生まれたのを喜んで、我も我もと押し寄せてきたのです。
思わず光りの元の月を仰ぐと、そこにはユダヤの聖なる七本柱の蝋燭立てと見まごう落葉松の見事なシルエットがそびえていました。
樹頂には祝祭の星、黄金のカペラが輝いています。
ところが見つめた途端、目くらめく思いに星座を見失いました。
目の錯覚か、落葉松の蝋燭立ての枝々に無数の金色の火が灯っていたのです。
そこら中みんなカペラだらけ!、星座どころか X’mas のイルミネーションで、どれが本物のカペラか分からない。
冬の夜には、唐松林の枝先にあちらにもこちらにも無数の星の花が咲きます。
星が巡ると、落葉松の美しシルエットに星が見え隠れし、人を相手に無邪気にかくれんぼうをしている様は、標高1000mの冬の風物詩です。
でも、今はそれどころではない!
『西岡さん、どれがカペラなの?』 『すご~い、あんなに金色の星が集まって、なんていう星座なの?』とかかってなこと言って‘せんせッ’の顔をちょかいだして覗き込む。
それは、もう二度と見ることができないほどの光景でした。
落葉松の枝々に降り積もった雹が凍り付き、満月の光りを胎んで一粒一粒金色に輝いているのでした。
大自然は、一刻一刻、世界中のあらゆる場所で、人知れずともこのような奇跡の一瞬を創造しているのでしょう。
人がたまたまその場に居合わせば、その恩寵を夢か幻か錯覚かと言葉を失います。
そして、人はそのような奇跡の瞬間に 二度と出会えないかも分からない、でも人は、そのことを二度と忘れない。
人が心の大地に植えたものは、何ものも穢せない、何ものも壊せない、何ものも奪えない、不可侵のものとなり、月日を経て成長し、いつの日か不滅の光を放つでしょう。
あの宇宙の写真を編集していた一月、それらの画像をしげしげ見るにつけ、一瞬宇宙に迷い込んだかのような錯覚に陥ることがありました。
思いもかけず、小さな画像の向こうの想像を絶する漆黒の闇の冷気とそこに息づく星達の熱い息吹に身をさらし、命がわななく思いにかられました。
それは、渺渺たる宇(空間)の中を、全てを生かしめる血となる宙(時)が悠悠と流れゆく大河の川面に、すっと現れ消えていくちっちゃな泡粒のように自分が思えたからです。
あのちっちゃな泡粒はなんで現れそして消えていくのだろう、と頭が【?】マークになった瞬間、圧倒的な厳粛さを持って、永遠の恐るべき香りを放ちながら全宇宙のレアリテが迫ってきました。
凍える冬の夜深く、無窮の静寂に包まれて暖かい寝床の中でいつとはなく眠りにつきます。
そしてあしたに起きる、だから生きています、一兆年後に起きても然り。
目覚めた人には自分がどれだけ寝たかは分かりません、永遠の一歩手前でもいいのです目覚めれば、、、ただ永遠だけが ……
この宇宙の全ての存在を浮かべて流れゆく大河は、いつしか永遠の大海に流れ込むのでしょうか。
そしてその折り、永遠は暗いでしょうか、それとも輝いているのでしょうか。
かすむ目でそれを眺めるうちに、しばし幻のように時空を失い、そこにあるのは、もはや私ではなく、人間でもなく、命でさえなく、、ただ見守り続ける何ものでもないものになるのでした。
その時、あの宇宙の全ての働きをたった五文字で表した有名なアインシュタインの関係式【 エネルギー(E) = 質量(m)×光速度(c)の 2乗 】が目の前に立ち現れたのです。
そして、限られざるもの…何にでもなり得る無限の可能性を持つもの【 E 】 と限られるもの…無限の可能性からたった一つのものに身をやつさなければ存在しえないもの【 m 】との行き交いを司り見守る【 = 】に、素手で触れるような思いがしました。
だが、この【 = 】の中を行き来するものはとてつもないものです。
広島原爆の爆心地の慰霊碑の中央の少女が抱えている箱には当時「原爆」という言葉か使えなかったために、この【 E=mc² 】の関係式が刻まれています。
爆心地上空わずか600mに太陽の表面温度と同じ火球が出現しました。
地表は6000度に溶け沸騰し、台風の暴風エネルギーの1,000倍の爆風が全てを木っ端微塵に、空を埋め尽くすB29爆撃機3000機分の破壊が黒い雨の闇のなかで人も建物も全て焼き尽くしました。
ところが、この人類史上最大の破壊をなしたのは、信じられないことにたった 7 グラムの質量【 m 】なのです。
【 E=mc² 】の【 c 】は1秒間に地球を7周半もするほどの力である光速です。
この式を m =E/c² と置き換えると、光速の数値を二乗した気が遠くなるような莫大な数値で割ってなお【 m 】が 存在するための0以上になるためには、分子の【 E 】がいかに途方もない数値を持つエネルギーとなるか分かります。
もし、1グラムの角砂糖の持つエネルギーを全て解放できれば、100Wの電球を2億5千万個も1時間灯すことができます。
なんでもない一粒の砂、一滴の露といえ、その中に秘められた本性は私達が通常想う域を遙かに超えて、マクロコスモスのような壮大なものとなります。
人はミクロコスモスへもマクロコスモスへも途方もない旅をするのです。
宇宙に存在する全てのものはエネルギーを持ち、その芯でこの【 c² 】が脈動しているということでしょうか。
光り!、万物生々流転する中で、始まりに生まれ行く末に至るまで変わりなきもの、
この神秘なるものの理に人は触れることができるでしょうか…
人が本能的に光りに憧れるのは、命の叡智がその謂われの故に、この理を映すからでしょうか…
ノヴァーリスのあの有名な言葉が身にしみます。
見えるものは見えないものに触れている聞こえるものは聞こえないものに触れている
感じられるものは感じられないものに触れている
おそらく、考えられるものは考えられないものに触れているだろう