星の王子様のバオバブの木

川が語ること

いつの頃からか、魚を飼い始めました。

幼い頃、実家の裏に小川が流れていました。
フナや、メダカや、コイやハヤなどたくさんの魚が泳ぎ、
夕暮れにはアオズジタテハの群れがみなもにワルツを舞い、
夕焼けの空を写したあかね色の川の上をツバメやトンボやコウモリが飛び交いました。

小さなクモが思いもかけない距離を虹色に輝く長い糸を引いて凧のように飛んでいく様を、夕餉の甘い匂いに腹の虫が鳴くまで飽かず眺めていました。

初夏にはホタルが、かわもに書く光りの文を読みました。
かみからしもまで淡い若草みどりの光りの川が流れて、暗闇の中の川のありかを教えます。

ホタルが舞う頃咲く花がホタルブクロです。小さなピンクの釣り鐘型の花を一枝に7,8輪付けます。
蛍を捕まえて、その花の中に1匹づつ入れると、闇の中に淡く明滅するピンクの釣り提灯のようで、不思議にそれを目指してまたホタルがやってくるのです。

時折、その小川に小さな事件が起こります。オニヤンマが飛来したり、どこから来るのか緋鯉や錦鯉が流れてくることがあります。
台風のあとは川面が一面、緑の浮き草で覆われ、その上を歩けるようでした。実際、隣の小さな男の子が歩いて大変でした…。

雨戸が流れてきたりすると、その頃流行ったトムソーヤをまねて、それを船代わりに大海を目指して探検に出かけます。
もちろん、すぐ親に捕まり怒られました。

でも、親達は子どもがみんな知ってる大きな秘密を知らなかった。
朝、流れていった赤い鼻緒の下駄が、‘オデュッセイの帰還’のごとく夕方また元のところに帰ってきてた。
川の流れは、昼には下り、夕方潮の満ちる頃には逆に上がり戻ってくる。
僕たちオデュッセイの大軍団も、夕餉には間に合う手はずだったのです。

Klee 金色の魚

川辺には、山桃の木や、ユスラウメ、モモ、カリン、ミカン、スダチ、そして問題の柿の木があり、季節には、川岸をあっちに行ったり、こっちに来たり、子ども達が実を取り合います。
通りに面した表口は大人の世界で一軒一軒みんな違いましたが、川辺の裏庭は、子ども達には解放区で何処までも一軒の同じ家のようでした。

果樹の木には実も子どもも鈴なりで、子ども達は樹上の丸見えの秘密基地を根城に、リスのように取った実を蓄え、小さな宴をはじめます。
女の子は春、岸辺に咲くハコベやナズナ、ツクシや、芹や桃の花のままごとで男の子を招くので、秋は男の子がこの小さな宴に女の子を招きます。

問題は柿の木で、枝がとてももろいんです。秋、枝先に残った最後の真っ赤に熟れていかにも美味しそうな宝を取ろうと身を乗り出した途端、枝が折れ、宝も子どもも、もろ共に川に落っこちます。

アッチでも、コッチでも子どもがトランポリンでもするようにドボンドボン落ちてます。
でも、空中を落ちていく間は魔法にかかり、川に落ちた瞬間、水はとても優しく受け止めてくれた。地上、空中、水の世界と三界を瞬時に体験できるミラクルな体験で、大人と違い、子どもは誰も川に落ちるのを恐れなかった。

天地の境

夜、夢の世界もいつも川の夢ばかり。川はまるで母親のように私達をいだくのでした。魚も鳥も実のなる木も虫や子どもも、みな同じ仲間の私達で、金太郎が乗るような巨大な錦鯉がその王国の王様だったりしました。

すべてはまるで、サンテクジュペリの「星の王子さま」の住む星にたった一本生えてる巨大なバオバブの木のようでした。
無数の葉っぱの一枚一枚は、魚の形だったり、鳥だったり、花だったり、子どもだったりしますが、みな葉柄で一本の幹にしっかりつながり、同じ生命のミルクを飲んでいる。
この類い希なる水の惑星地球が、三十数億年かけて書き続けている偉大な“生命の系統樹”ですね。

子ども達は、この“生命の系統樹”の中を魔法のように自由闊達に行き来し、子ども達の昼は、夜の夢を引き継ぎ、昼はまた夜の中へと結ばれていくのでした。

この黄金の時への憧れが、魚を飼うきっかけとなりました。

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