沈黙は無ではないのだ

白色矮星

2006年6月24日・25日と「 雲 龍 さんの笛の会」を催させていただきます。

雲龍さんは、私どもで幾度も富士山のいろんな場で演奏していただきました。

細野晴臣さんとご一緒のおりに、富士五合目の古来から聖地とされる‘小富士’で演奏していただいた時は、満月の夜で特にすごかったです。

小富士は富士の側火山の火口跡ですが、深い森の中に突如として現われるので、どなたもが度肝を抜かれてしまいます。
まるで満月の置き台と云っても似つかわしい姿です。

ところで、雲 龍 さんの笛は、細野さんが、「おそらく日本で唯一無二の笛ふきだ」とおっしゃるぐらい、独特なのです。

吹けるものなら何でも、そのものの心が自ずから歌いだしたと云わんばかりに、美しい響きが生まれてきます。
滝壺で穴があいた石や、虫が喰った木の実、雲 龍 さんがその息で穴を磨いたようなコアガラスの笛、全て時をかけて創り上げられたものです。

詩人の谷川俊太郎さんは、雲 龍 さんの笛の音ををこんな風に語ってらっしゃいます。

雲 龍 さんの笛を聞いていると

なにものかが訪れてくるように感じる
 
なにものが私のもとに訪れてくるのだろうか

沈黙…と、私は答えたい

沈黙が音を連れてやってくるのだ

そして、沈黙について、詩人の深い洞察の言葉が続きます。

静けさ…と言ってももいいのだが

静けさを伝えるにはこの星の大気が必要だ

沈黙は真空のうちに存在している

地球を離れたこの宇宙に沈黙は偏在している

…沈黙は、しかし深いエネルギーに満ちている

沈 黙 は 無 で は な い の だ

この「沈黙は無ではないのだ」という詩人の感性による洞察は、宇宙物理学の最先端の成果であるとともに、世界の最も古い聖典『リグ・ヴェーダ』の宇宙開闢の歌の「そのとき無もなく、有もなかった… 」と歌われたことにも通じます。
この「そのとき無もなく」というのは本当にすごい古代の叡智です。
私たちの常識的な存在感を根底からひっくり返し、衝撃的です。

オメガ星団

静けさが音の対語であるように、無は,「在るものがないという」有の対語と言ってもいいでしょう。
それに比べ“沈黙”は、リグ・ヴェーダに歌われた「無も有もない」状態を表現して、じつに見事だとおもいました。
難しい宇宙科学の根幹の概念をたった一言で表し、刺激的です。

「無も有もない」状態とは、太極図のように陰と陽、プラスとマイナスの要因が平衡し、表面上は無色透明中性のような状態をいうのでしょうか。
何も起こらないけれど、エネルギーは充満し、ただそれが発動せず‘沈黙’しているのでしょうね。

イングリッド・ベルイマン監督の映画に、神の“沈黙”をテーマにしたものがありました。
それは、スペイン市民戦争やアウシュビュッツの悲劇を前に、“神の沈黙”を問うようなものでした。

そのことを思うと、胸の内にこみ上げてくる痛みを感じます。
はち切れんばかりに何か拮抗する力が満ちてきて、どちらに付くことも出来ず、大岩のように頑なに沈黙を守らざるを得ません。
しかし、かみしめた唇に血がにじむような沈黙の内には、「何かが動き回っていた」。
やがていつかそのポテンシャルが破局点を迎えたときに、アァ!という叫びが口からほとばしるように、何かの“有”が生まれるのでしょうね。

空っぽのはずの真空を満たす深いエネルギーの‘沈黙’に、なにかの“ゆらぎ”が起こり、どちらかに偏ると、水止明鏡の水面にも波が立ちます。
全くの真空中に、突如、素粒子が誕生し、しばしの活動の後、消滅することがあります。

このように、波が立ち、また収まる、そのあり様を人は有・無と名付けるのではないでしょうか。
しかし、それは存在の有様であり、存在の実体そのものではありません。

リグ・ヴェーダは、続けてこのように歌います。

何かが動き回っていた
どこで、誰の庇護のもとに
深くて測ることのできない水だったのだろうか

そのとき死も不死もなかった
昼と夜を分かつしるし(太陽、月、星)もなかった
唯一物は自らの力により風なく呼吸した
そのほかには何ものも存在しなかった

この「深くて計ることのできない水」のような、「自らの力により、風なく呼吸する唯一物」から、「目に見えない透明な水の中に突如生じた泡のように、ポッと」(佐治晴夫)宇宙は生まれました。

聖典で「何かが動き回っていた」と表現された、宇宙発生のきっかけとなった“ゆらぎ”こそが、宇宙の最も根源的な性質なのでしょう。
それは生成力、生み出す力と言ってもいいのではないでしょうか。

谷川さんは、“沈黙”について人が語れる、最も美しい言葉を伝えます。

どんなおおきなおとも わたしからうまれる
 
どんなちいさなおとも わたしにかえってくる

わたしのもとにおいで

わたしはふるさと わたしははか

太古をいまにむすぶもの

わたしのもとにおいで

わたしははじまり わたしはおわり

生と死をむすぶもの

そして、谷川さんは 「雲龍さんは、いわば沈黙を音に翻訳する」人だと語ります。

三裂星雲

富士の人手の触れぬ森の奥深くはいると、どなたもが一つ必ず経験されることがあります。
それは、樹木の立ち姿が“見える静けさ”というか、不思議な静けさの慈光に包まれているのをご覧になります。
そして、この静けさは、そこにどんな音が来ても、決して穢されず揺らがないことを感じられるでしょう。

やがて、いつしか見ている私たちの前で、静けさはその正体を明かします。
音は必ず発生源があるのに、静けさはここ,あそこという限定される発生源が無いので、あらゆるところに充ち満ちることを悟ります。
それは、目前の一本の木から宇宙の果てまで満ちて、一本の木はまるで‘沈黙’の美しい口元のように思えてくるのです。

もし、その口元がふと開かれても、人は決してその奥に虚無を見ることはないでしょう。
なぜなら、私たちはそれと出会った瞬間、もうすでにそれが聖なるもの、美しいもの、正しきものであることを本能的に直感してしまうからです。
そして夜明けが必ず訪れるように、私たちの心の中に曙の初々しい輝きのような畏敬の念が自然に起こります。

でもそのとき人は決して、その畏敬の念を故なく起こることとは思わないでしょう。
それは、人一人がそこにあることは、絶対的な真実であり、また全ての真実がそこに結晶し無ければあり得ないという美しい事実を根拠にするからだと思います。

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