その未踏の星座の煌めく宇宙へ 山頭火 Ⅰ/Ⅴ

愚かな旅人として、一生流転せずにはゐられない私
二本の足よ、歩けるだけ歩け、行けるところまで行け…

“ この旅、果もない旅のつくつくぼうし ”     
 

俳人 山 頭 火

若き日々、バリケードの嵐の中や、武蔵野の栗の花に埋もれて、どれだけ山頭火を読んだだろう。

グレン・グールドの弾くくゴルトベルグが、 朝焼けに失われた星影をたどり、明けゆく空に音の星座を描いてゆく。

大きな空の五線譜の上を流れゆく調べの向こうで、ゴルトベルクを聞いている二十歳の私の肩越しに、南の海で拾った懐かしい忘れ形見が見えている。

思い出の中の二十歳の私と今の私、時の隔たりがあるはずなのに、紙一重の差もないことに驚 く 。

出家後の山頭火は、’耕 畝’ の名に自身が生涯なすことへの決意を込めて、魂の畝を耕す 行 乞 ( 施しを受ける行 )の旅を、十数年為すが、その旅路はどこまでも ” 分け入っても 分け入っても青い山 ” であった。

辞世の句 ” もりもり盛りあがる雲へあゆむ ”まで、生み出した 八万四千余句の一句一句は、人知れぬ道をひたすら歩む彼の足音に聞こえて、その旅路の遙けさが 高き山を仰ぐ思いで身に沁みる。

一句読み また一句味わいする毎に、目が点に、どこにも疎かなものがない。
まるで鳥がポコポコ産んだ卵がかえるように、新しい世界が次から次へと生まれてくる。

これが八万四千余句 もあるのかと、その山の大きさが計り知れず、人は生涯かけて何を為しうるのかを思う時、我が行く旅路の先に いつも山頭火の背を見ざるを得ません。

人はみな、他ならぬ己が道を歩みます。
惜しむらくは、一生涯、思いは千々に乱れても、目に見えぬ磁極に引きつけられるように一つ道しか歩めぬことです。

山頭火は、わずか17,8文字の入れ物に、天を穿たんとするほどの念を込め、『 うたう者の喜びは 力いっぱいに自分の真実をう たうことである 』 と、我が身を削ぐことも顧みず、生死の境を超えていきました。

いつも思います。芭蕉をはじめ、山頭火や放哉など俳人が ’野ざらし’ を覚悟してまで、旅を栖とする心の座標は、人間精神のどんな高みにあるのかと。

彼らの魂の中に、何かの’召命感’を、神意により与えられた使命に応じ一身を捧げんとするサクリファイスを、感じてしまいます。

教育された感情の方向から未開の感情の深みへ、
その未踏の星座の煌めく宇宙へ行ってみなければ、人間はなにも解ったことにはならない。 

( 辻 まこと )

若い頃から、この言葉は私の心の天空に輝くポラリスでした。
人生の折々、いつもこの言葉に回帰して、『 未踏の星座の煌めく宇宙へ 』 とのフレーズに、子供のようにドキドキワクワクしていました。

さすが 辻さん、ヤリマスネ、 あらゆる事の名手であったあなたの、ことさら言葉は類い希なる名刀で、物事の本質を鋭く切る、そしてその美しい切り口を見せてくれる。

二十歳の頃から今となっても、あなたの言葉はあまりにも真実すぎて、いまだ僕は至りえずにいます。

しかし、我が旅路の遙か彼方で ’ うしろすがたのしぐれてゆく ’ 山頭火の ’ 果てない旅 ’ が見つめているものが、そこであることを予感するのです。

私の心の、目の届く地平線の中にあるものとは、みな顔見知りです。
しかし、この頭蓋の中には、地平線の彼方も 確実に存在します。

というのも、私はモーツァルトにも、ダンテにも、ミケランジェロにも当然なれないのに、彼らが残したものに触れた瞬間、青天の霹靂の如く心を打ち、頭上に永遠の碧空を開くことが 自ずから起きるからです。

私の中のどこかに、小さな私を超えた その大きなものに共鳴りするものがなければ、それらがどれほど素晴らしくても、’馬の耳に念仏’です。

とすれば、私は、私が知っている私だけではできてないということでしょうか。

手のひらの中が見えないように、私の心の王国を支えている大地の中も見えません。
いわばそこは心の本能の領域で、身体の本能が営む生命のおかげで 日々を暮らせるように、心の本能の働きのおかげで 私 を楽しむことができるのでしょう。

その見えない地べたの下、未踏の領域に生息する本能の中にこそ、おおきなものに共振する琴線があるのですね、辻さん!

手のひらの中は、37億年の生命史の堆積です。
生命史は、全生命種の75%~98%が絶滅する危機を何度も、一番惨かった 2億年にわたり、厚さ5、6kmの氷に閉じ込められた”スノーボール アース”の時代さえ乗り越え、その鍛え上げられたDNAが、今私達の身体の平安を守っています。

私という小さな家が立つ、心の大地の中には、200万年という厳しい時の試練に鍛え上げられた人間存在の知恵が!

37億年という計り知れない壮大な時のうねりを 鳴り止まなかった生命存在の命であることの喜びの歌声が!

太古の始まりから137億年間守り続けられてきた宇宙存在の存在することを成就する真実の結晶が!

私が創らなくても 二重螺旋の叡智によって すでに分厚い地層として用意されているのですね。

暗黒の深いみなそこ(水底)のこれらの地層から生まれた水泡が、私の意識の明るいみなも(水面)ではじけて、美しい水紋を描く、そして私が美しいと思い、感動する。

その大いなる地層は、おまえの中にあるのだから、想像力という駿馬を駆って、自在に駈けてみよ。
そして、大いなるものであるが故に、天に輝くものとなる壮麗な銀河を仰ぎ見よ、辻さん、あなたは そう私に教えるんですね。

世間から見れば、ぼろぼろの人生ともみえかねない 山頭火の苦難を耐え忍ぶ生涯の中から、

彼が、『 うたう者の喜びは 力いっぱいに自分の真実をう たうことである 』 と高らかに宣言できたのは、’野ざらし’ を覚悟した旅に常に寄り添った小さな 優しいものたちの慰めの力であり、

彼の心の中の限りなく広大な未踏の領域、その初々しい息吹に満ちた処女地を縦横無尽に疾駆し、『 自分の真実 』といえる星座の煌めきに常に導かれていたからでしょう。

確かに、私達が何かを分かったと言えるのは、命が 『 Yes!』 と頷かない限り、何一つ 『 自分の真実 』とはなりえません。
そして命は、生死の境を超えて なお価値のあるものにしか 『 Yes!』 と 頷かないのです。

地の上の、’野ざらし’ を覚悟して旅するものを包む天空には、生死の境をも超えていく不滅の価値あるものが、常に日となり月となり星となり輝いていたでしょう。


終の棲家となった「一草庵」にて

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