「一点の山蛍 寂寥を照す」 山ホタル Ⅲ
亜里沙ちゃん、‘一字の師’ この故事は著名な唐の詩人 鄭 谷 の逸話から来ています。
人の心の中は、日々様々な思いが渦巻き、やがて渦の芯に消え、また生まれ消え していくような様があります。
しかし、渦に浮かぶものは見えるのに、そのすべてを引き込む芯の奥にあるものは、自分の心の中にありながら、なぜかその正体がよく見えないですね。
なぜ自分はこう考えがちなのか、なぜこう感じがちなのか、その由来ははっきりしないのに、何か宿命性のようなものを感じます。
それはきっと、私は私だけでは出来てないからだと思います。
私という家を建てるにも、悠久の時に形成された大地の上に立てねばなりません。
もし私だけなら、それは糸を切られた風船で、風船のなかでいくら探っても、雄大な天と地の狭間を流れゆく己の姿は見えないでしょう。
私たちは野にある一茎の草のように、大地に根を張り、その滋養をいただかなければ、一瞬たりとも生きていけないのです。
‘一字の師’はこの芯を打ち、人の心身の依って立つこの大地のあり様を教えます。
鄭 谷 が、山ホタルを歌った、深く心うたれる漢詩があります。
贈 日東鑑禅師 鄭 谷
故国 無心 渡海潮 故国 無心にして 海潮を渡る
老禅 方丈 倚中條 老禅の方丈 中條に倚る
夜深 雨絶 松堂静 夜深け 雨絶えて 松堂静かなり
一点 山蛍 照寂寥 一点の山蛍 寂寥を照す
この「一点の山蛍 寂寥を照す」という結句は、芭蕉の有名な句を思いださせますね。
ふるいけや かわずとびこむ みずのおとしずけさや いわにしみいる せみのこえ
‘一点の山蛍’も‘水の音’も‘蝉の声’も、一燈の火が漆黒の闇の肌を更に深くするような役を担っています。
それらの相手である‘しずけさ’や‘寂寥’とは一体何なのでしょう。
僕たちの出会った一匹の山ホタルは、流れ星が落ちたと思わせたほど、夜の闇を圧倒し、僕たちの度肝を抜きましたが、なぜ僕たちはそんなにビックリしたのでしょう。
イギリスの神秘家であり、画家、詩人のウイリアム・ブレイクの有名な詩が、同じ世界を語ります。
To see a World in a Grain of Sandand a Haven in a Wild Flower,
Hold Infinity in the palm of your hand
And Eternity in an hour.一粒の砂の中に世界を 一茎の野の花に天を見なさい
あなたの手の中に無限を そして、一瞬に永遠をつかみなさい
これは、それぞれの4つの [a …] が、とても大切な意味を持っています。
個と全が互いに対等で、互いに見つめ合っている感じがしますね。
無限に比すれば僕たちの手なんて小さい、永遠に比すれば一瞬なんて無いに等しい。
しかし、この一瞬に無限が成立するためには、この小さな僕たちの手、一点が厳然とここに存在しなければならない。
永遠が成立するためにも、今この一瞬が、ここに存在しなければならない。
もしなければ永遠にむけての時の進行もそこでとまり、永遠もないですね。
この一瞬が永遠というものの命を握っている。
どちらもその存在が Here-Now、この一点にかかっている。
こういう意味で対等であり、お互い切って切れない関係なんでしょうね。
ヨーロッパ文化ではこれを“correspondance – コレスポンダンス”(万物照応)といっています。このことについては僕の尊敬する宇佐見英治先生や、人間国宝の志村ふくみさんの美しい文章があります。
象徴派詩人の旗手、ボードレールは、時空を自由に行き来し、天地を自由に行き来するこのコレスポンダンスの感覚を様々に歌いました。たとえば、有名な“悪の華”の「香水の壜」ではこう歌っています。
どんな物質をも浸透する強い香りがあるだろう。
どうやらそれは、硝子にさえ滲み込むらしい。昔、東邦から将来された、錠前が錆びついて
仲々開かないやうな、小匣を無理に開けたり、人の住まなくなつた古家に置き忘れられ、
煤けて、埃まみれの、むせかへるやうな
昔の匂ひで一ぱいな箪笥を開けたりすると、思ひ出し顔の古い香水の空壜が見つかったりして、
生き生きと昔の人の心が甦へつたりする。
亜里沙ちゃん、こういうことを感じるとる “ SENSE OF WONDER ” の感性を鍛えることが一番大切だと、僕は思っています。
…‥‥・つづく・‥‥…