矢内原 伊作

矢内原 伊作 / 哲学者、詩人

矢内原 伊作

中学生のとき見た「美術手帳」の中の一枚の絵、ジャコメッティー作『Isaku.Yanaihara』を偶然見たときの衝撃を、私は一生忘れることはないでしょう。 それは、実に奇妙で、不思議な出来事、深刻な美の体験とでも言えるものでした。 未だその正体は分らずですが、この時の出来事に導かれてここまで長い道のりを歩いて来たのだなと、今になって思えるのです。

私は生まれて始めて、人が命という道を歩いていく目的地、光りのありかを示すなにものかに、その時、そっと触れられたのだと思います。 その絵の中には、一人の人物が、中央に座っています。 あらゆる方向に疾駆し渦巻く数限りない線が、途方もないエネルギーの結晶体のような一つの顔を作っています。 見ているうちに、私は目くらめく思いがして、その巨大な渦に飲み込まれ、あっという間にその顔の裏側、無限の宇宙の中に放り込まれました。 そして、この何者もとどめることのできない怒濤のような運動体、宇宙の灼熱する心臓が、まさにその顔に思えたのです。

しかし不思議なのは、ふところにそんな爆発的なエネルギーの脈動を抱きながら、その像は微動だにせず静かなのです。 まわりをつつむ光背のような空間も深閑として限りない静謐を湛えています。 この動と静のあまりの落差の大きさに私は自分を見失い、あとには不思議な光景が遺されました。 手にしているちっちゃな本も、見知った部屋も、窓の外の青空も、自分の手さえも、何かを語りかけてくるような優しい不思議な光りを発する一つの生き物と化しています。

矢内原伊作先生 「ジャコメッティとの日々」を語る

『空即是色』だ、という叫びのような直感が私の中を稲妻のように走りました。 ここには因果律を支配する時もなく、無限分の一の存在の悲しみを持つ空間もない。 だから“空”なのだろう。 『慈=悲』の“慈”と“悲”が、“空”と“色”が、互いに見つめ合い、互いに照らし合い、晴れやかに相聞歌を詠っている。 不離不壊の間柄なのだ。

もちろん中学生ですから、そんな難しい言葉は何も知らなかったのですが、そのすべてがごちゃ混ぜの一丸となったような意味だけが、私の涙と共に溢れ続けて、そのみなもとに、『Isaku.Yanaihara』がありました。 以来、『矢内原 伊作』は、私の恩師となり、道標となったのです。 『風のように自由に、石のように堅固に』ふるえるような温かく無垢な心が、まわりすべてを励ましつづけました。

病ののむごい痛みのなかでも、一茎のフシグロセンノウに讃歌を捧げ、自殺したフィリピンダンサーに連帯する詩を捧げた。 何ということだ。後日、私は見たのです。人生のなかでたった一度だけ、人が白光に包まれているのを。

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